まずは昨日の『福井新聞』さん。

【論説】津村さん原稿、県に寄贈 代表作が持つ圧倒的な力

 福井市出身の芥川賞作家で文化功労者の津村節子さん(94)の製本手書き原稿6点が福井県ふるさと文学館に寄贈された。自伝的小説、伝記小説、歴史小説と多岐にわたり、いずれも代表作。文学賞受賞作も含まれる。万年筆の手書きには力があり、推敲(すいこう)の様子が手に取るように分かる。加筆修正が重ねられた原稿は、作家が世に問おうとした思いの結実であり気迫が伝わってくる。
 6点は、高村智恵子の伝記小説で芸術選奨文部大臣賞を受賞した「智恵子飛ぶ」、戊辰戦争を会津藩士の娘の視点から描いた歴史小説で女流文学賞受賞の「流星雨」、自伝的小説3部作の「茜色の戦記」「星祭りの町」「瑠璃色の石」と、八丈島に流刑された遊女を描いた歴史小説「黒い潮」。県ふるさと文学館で開催中の「新収蔵 津村節子展~津村節子という生き方~」(~6月4日)で公開。2015年の同館開館記念特別展に寄せた自筆原稿はじめ約120点の資料が並ぶ。
 「智恵子飛ぶ」は、画家として活躍した智恵子が彫刻家・高村光太郎と出会い、結婚後は夫の圧倒的な才能に押しつぶされていく芸術家夫婦の葛藤を描いた。吉村昭さん(1927~2006年)と夫婦作家であった津村さんは、光太郎という天才と暮らす智恵子の心情を推し量ることができたのだろう。夫というライバルに対して智恵子が抱えた羨望(せんぼう)や屈辱といった感情のせめぎ合いが圧倒的な熱量をもって表現される。自筆原稿はほぼ全編を通して加筆修正され、智恵子が死に向かう終盤はより修正が多くなる。物語をどう結ぶか、津村さんが考え抜いた様子がうかがえる。
 津村さんにはふるさと5部作といわれる福井の女性を主人公にした作品「炎の舞い」「遅咲きの梅」「白百合の崖」「花がたみ」「絹扇」がある。「遅咲きの梅」と「花がたみ」(越前市所蔵)以外は、県が自筆原稿を所蔵。ふるさとを丹念に取材した5部作を津村文学として親しんでいる県民は多いだろう。代表作の自筆原稿が県に寄贈されたのを機に、改めて6作品に向き合いたい。
 半世紀以上、第一線で執筆を続ける津村さんは非常に限られた作家だ。20代のころから作家を「いのちをかける仕事」と語ってきた。6作品はどれも、懸命に生きる女性の姿に光を当てている。心の内を丁寧にすくい上げた物語は強い力を持って読み手を引きつける。津村さんが命をかけて世に出した作品世界をいま一度味わいたい。

福井県ふるさと文学館さんに、『智恵子飛ぶ』(平成9年=1997)のそれを含む津村氏自筆原稿等が寄贈され、展示されているとのこと。まったく存じませんで、調べてみましたところ、先月から始まっていました。

コレクション展 新収蔵 津村節子展 津村節子という生き方

期 日 : 2023年3月1日(水)~6月4日(日)
会 場 : 福井県ふるさと文学館 福井県福井市下馬町51-11
時 間 : 平日 9:00~19:00 土・日・祝 9:00~18:00
休 館 : 月曜日 4月11日(火)~4月14日(金) 5月25日(木)
料 金 : 無料

 津村節子は、1928年福井市に生まれました。1965年に小説「玩具」で芥川賞受賞を機に福井を訪れた津村は、『花がたみ』『絹扇』などで故郷・福井の女性を描きました。その後も、夫の死と向き合った『紅梅』で2011年に菊池寛賞を受賞。2016年には文化功労者に顕彰されています。
 このたび、当館は、津村節子氏の代表作である『流星雨』(女流文学賞受賞作)や『智恵子飛ぶ』(芸術選奨文部大臣賞受賞作)など自筆原稿6点をご寄贈いただきました。本展では、新収蔵資料を中心に、半世紀以上にわたり、書くことに向き合い続ける作家・津村節子の軌跡と作品世界に迫ります。
003
『智恵子飛ぶ』の原稿、複製は荒川区の吉村昭記念文学館さんでの「津村節子展 生きること、書くこと」、三鷹図書館さんでの「吉村昭と津村節子・井の頭に暮らして」展でそれぞれ拝見しましたが、複製でない現物が寄贈され、展示されているのですね。

その他、『智恵子飛ぶ』で第48回芸術選奨文部大臣賞に輝いた際の賞状、二本松市教育委員会さんご提供の智恵子関連のパネル、津村氏旧蔵の光太郎複製原稿なども展示されています。

以前にも書きましたが、故・吉村昭氏との夫婦ご同業ということで、光太郎智恵子夫婦にも通じる余人には伺い知れぬご苦労がいろいろおありで、そのあたりが『智恵子飛ぶ』にも反映されています。

お近くの方(遠くの方も)ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

建築は来月の初旬には出来相だ。君の旅行以前に今度の家で一緒に「めし」でも喰ひたいと思つてゐる。今度の家は僕の生活上に一線を画す筈だと思ふ。愈々一人の生活が始められると思つてゐる。


明治45年(1912)5月(推定) 水野葉舟宛書簡より 光太郎30歳

昨日のこの項でも触れましたが、「建築」は駒込林町25番地の住居兼アトリエ。光太郎自身の設計です。ここに移るまでは、指呼の距離にある実家の庭にあった祖父の隠居所を改装してアトリエとしていました。前年12月に智恵子と初めて会ったのもこちらです。

愈々一人の生活が始められる」とありますが、明治43年(1910)末から翌年にかけ、2ヶ月ほど日本橋浜町の松葉館という下宿屋に居たので、その際は独り暮らしだったはずです。ただ、当時の下宿屋では食事は自室で摂るのではなく、下宿人が座敷で一堂に会して饗されるというスタイルのところが多かったため、その意味では純粋な独り暮らしとは言えなかったということでしょうか。