今日開幕です。光太郎の父・光雲が主任となって制作された鋳銅聖観音像のライトアップも為されます。
上の画像は昨年秋のライトアップ時。愚妻がお友達と京都に行くというので撮ってきてもらいました。
【折々のことば・光太郎】
自分は芸術家です。芸術三昧のうれしさと、芸術的全生活の貴さとは既に味ひもし知りもしてゐました。しかし日本に帰つた時日本の社会状態をつくづく見るに及んで此を吾人に近くしてみたいといふ考を起しました。此が動機で琅玕洞も造りました。其他種々の計画でまだ実行されなかつたのも沢山あります。芸術家にこんな事をさせたのは今の社会です。僕は我慢に我慢をしてやつてゐました。然るに此頃つくづく其の馬鹿げてゐた事を感じました。そこで美術国たる日本に全然背中を向けるのです。日本の恩を蒙りたくなくなりました。
山脇信徳は画家。明治42年(1909)の第3回文部省美術展覧会(文展)にコテコテの印象派風の絵画「停車場の朝」を出品しました。これを光太郎は是とし、石井柏亭などは「日本の風景にこんな色彩は存在しない」とディスり、所謂「地方色論争」が巻き起こりました。さらにそれが光太郎の評論にして我が国最初の印象派宣言とも言われる「緑色の太陽」につながります。
さて、その山脇に宛てた書簡から。芸術後進国・日本を啓蒙しようと、画廊・琅玕洞を開いたりしたことについて、芸術家自身がそんなことをすべきでなかったし、結局うまくゆかなかったとしています。
上の画像は昨年秋のライトアップ時。愚妻がお友達と京都に行くというので撮ってきてもらいました。
期 間 : 2023年3月24日(金)~4月2日(日)
時 間 : 17時45分~21時30分(21時受付終了)
時 間 : 17時45分~21時30分(21時受付終了)
場 所 :
(京都市東山区林下町400 ) 友禅苑、国宝三門楼上、女坂、国宝御影堂、阿弥陀堂
料 金 : 大人800円(高校生以上) 小人400円(小・中学生)
みどころ
友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、 華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、 補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
国宝 御影堂
寛永16(1639)年、徳川家光公によって建立されました。間口45m、奥行き35mの壮大な伽藍は、お念仏の根本道場として多くの参拝者を受け入れてきました。
国宝 三門 回廊公開は春季9年ぶり
元和7(1621)年、徳川秀忠公が建立した高さ24m、幅50mの日本最大級の木造二重門。悟りの境地に到る「空門」「無相門」「無願門」の三解脱門を表すことから三門といいます。
関連行事
聞いてみよう!お坊さんのはなし テーマ『機をはからう』~その身そのまま、あなたのままで~
正座じゃないといけないの?手の合わせ方が分からない。仏教は難しそう…。お坊さんの話を今まで聞いたことがない。どのようなお方も大歓迎です! 気軽に御影堂へいらしてください。気さくなお坊さんたちが皆さまを温かくお出迎えいたします。お話の後、木魚にふれ「南無阿弥陀仏」とお称えする、木魚念仏体験がございます。日常から離れた心静かなひとときをお坊さんと味わってみませんか?
知恩院七不思議のひとつ「鴬張りの廊下」をモチーフにした缶バッジを参加者全員に差し上げます!(無くなり次第終了)開始時間:18:00~ 18:45~ 19:30~ 20:15~(各回お話15~20分、木魚念仏体験5~10分程度)
月かげプレミアムツアー
ライトアップ拝観エリアすべてを僧侶と一緒に巡る特別ツアーです。御影堂内陣や大方丈などの通常非公開部もご案内!1時間半たっぷりと知恩院の魅力をご体感いただけます。
日程:毎夜開催
開始時間:17:45~/19:30~
所要時間:1時間半程度
定員:各回25名様程度
料金:お1人様3,000円(小・中学生1,500円)
ライトアップ拝観料込み。料金は拝観受付にてお支払いください。
特別展示 Tradition : Redefined3月25日(土) / 26日(日)
『千代紙 色とデザイン』RE:KAO
「椿柄」を十四色という多色で手摺りされた千代紙。今回は屏風に仕立てました。
3月31日(金) / 4月1日(土) / 4月2日(日)
『花明 Ceramic × Scissors』林侑子・陶芸家
「白磁」をハサミで切る独自の技法土鋏(つちばさみ)。磁器と鋏で「花明かり」を作り出す。
『鬼より強い守り神』吉田瑞希・陶芸家
「鍾馗(しょうき)」という中国から日本に伝わってきた、屋根に佇む魔除けの神様。
場所 友禅苑 茶室「白寿庵」・茶室「華麓庵」
ぜひ足をお運び下さい。【折々のことば・光太郎】
自分は芸術家です。芸術三昧のうれしさと、芸術的全生活の貴さとは既に味ひもし知りもしてゐました。しかし日本に帰つた時日本の社会状態をつくづく見るに及んで此を吾人に近くしてみたいといふ考を起しました。此が動機で琅玕洞も造りました。其他種々の計画でまだ実行されなかつたのも沢山あります。芸術家にこんな事をさせたのは今の社会です。僕は我慢に我慢をしてやつてゐました。然るに此頃つくづく其の馬鹿げてゐた事を感じました。そこで美術国たる日本に全然背中を向けるのです。日本の恩を蒙りたくなくなりました。
明治44年(1911)4月8日 山脇信徳宛書簡より 光太郎29歳
山脇信徳は画家。明治42年(1909)の第3回文部省美術展覧会(文展)にコテコテの印象派風の絵画「停車場の朝」を出品しました。これを光太郎は是とし、石井柏亭などは「日本の風景にこんな色彩は存在しない」とディスり、所謂「地方色論争」が巻き起こりました。さらにそれが光太郎の評論にして我が国最初の印象派宣言とも言われる「緑色の太陽」につながります。
さて、その山脇に宛てた書簡から。芸術後進国・日本を啓蒙しようと、画廊・琅玕洞を開いたりしたことについて、芸術家自身がそんなことをすべきでなかったし、結局うまくゆかなかったとしています。