今年も3.11が近づいて参りました。「あの日」から丸12年ですので、亡くなられた方々の十三回忌ということになります。その中には、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で「女川光太郎祭」を主催なさっていた貝(佐々木)廣氏も含まれます。
『毎日新聞』さん、2月19日(日)の記事から。女川町に建てられ、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」に関わります。
「私たちは震災を経験した人から話を聞ける世代。被災した人の気持ちを100%理解できなくても『もっと知ろう』と聞くことで少しずつでも近づけるはずだ」。そう感じた瑚白さんは「少年の主張」大会に向けて作文に書こうと決め、震災体験を志乃さんに聞くことにしました。
12年が経とうとし、震災を直接知らない世代が増える中、いかに伝えていくかというのは本当に大切な課題ですね。
【折々のことば・光太郎】
五月十五日に倫敦からこの阿波丸にのり込んで今は地中海の上に居る。七月一日頃神戸着の由。二ヶ月間のうちには君にも会へる訳である。碧い空と紫の水とを見て愉快に日を送つて居る。
明治39年(1906)2月に横浜を出航し、カナダのヴァンクーヴァーから大陸横断鉄道でニューヨークへ。翌年には豪華客船オーシャニックでロンドンに。さらにその翌年、英仏海峡を渡ってパリ。それぞれの都市で約1年ずつを過ごし、最後はおよそ1ヶ月間のイタリア旅行。3年余りの留学も終わりを告げ、ぐるりと地球を一周して日本に帰ります。
『毎日新聞』さん、2月19日(日)の記事から。女川町に建てられ、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」に関わります。
「記憶のない私は何もできない?」 母と向き合った14歳の決意
宮城県石巻市立桃生(ものう)中学校2年の武田瑚白(こはく)さん(14)は、夏休みに書いた作文に胸の内をつづりました。まだ2歳だった「あの日」の記憶はほとんどありません。
東日本大震災の発生から間もなく丸12年になります。この春からは小学校の全学年が「震災後生まれ」です。当時を知らない世代にも震災を身近な出来事と受け止めてもらい、将来の災害から命を守るためにはどうすればいいのでしょうか。
瑚白さんが生まれ育った石巻市は2011年3月11日の大震災で津波にのまれたり、避難生活で体調を崩したりして、約4000人が犠牲になりました。当時、暮らしていたアパートは津波の被害を免れ、両親とも無事でした。でも、隣町の女川町にあった母志乃さん(45)の実家は流され、同じ町に住んでいた曽祖父母や叔母らが亡くなりました。
テレビで震災特集が始まると「見たくない」とチャンネルを変え、街に流れる防災サイレンの音を聞き「思い出す」と体をビクリと反応させる母。そんな様子を見て、いつしか「震災には、触れちゃいけないのかな」と思うようになりました。
被災地の人たちは、日ごろから震災について語り合っているわけではありません。多くの人が心に傷を負っただけに「思い出したくない」「思い出させて、傷つけてしまうかもしれない」との不安があり、震災を話題にしづらい空気もあるのです。
ありのままに伝えることで
瑚白さんに昨年7月、転機が訪れます。それは桃生中の阿部一彦校長(56)が「より深く震災のことを理解するきっかけになれば」と初めて企画した社会科見学での体験でした。まずは海から約1キロにあり、教室などが黒焦げのままの石巻市立門脇(かどのわき)小学校の被災校舎を訪ねました。当時の惨状を語ったのは、伝承活動を支援する団体「3・11メモリアルネットワーク」の藤間千尋さん(44)です。
3階建て校舎には1階天井に近い高さ約1・8メートルまで津波が襲いました。街では車のガソリンなどが流れ出して「津波火災」が起き、校舎も火災に。校内の児童224人と教職員は高台に避難し助かりましたが、下校した児童7人が犠牲となりました。
震災の惨状をありありと語る姿に瑚白さんは「石巻で被災した人だろう」と思い込んでいました。でも藤間さんは神奈川県出身。1995年の阪神大震災の時、高校2年生で被災者の救援に駆けつけられなかった後悔がありました。そんな思いが背中を押し、震災後に石巻でボランティアを始めて移住した人でした。
藤間さんは、被災者や語り部の体験に耳を傾け、その言葉や思いをありのままに伝えるよう努めたといいます。「経験していなくても伝えられることはある。みんなも伝える一人になって」との言葉が、瑚白さんの胸に刺さりました。
「生きて戻ってきて」校長の言葉の意味
その後、女川町立女川中学校(震災当時は女川第一中学校)の旧校舎の脇にある「女川いのちの石碑」を訪ねました。阿部校長は、震災時に社会科教諭としてこの中学に勤めていました。校内にいた生徒たちの命を守った一方、自宅に帰った生徒2人が犠牲になりました。学校再開後も生徒たちに街の様子を見せるか迷い教室のカーテンを閉めたこともありました。窓から見える一面のがれきの中で遺体を捜す人もいたからです。
阿部校長は、教え子たちが「1000年後の人にも震災の教訓が伝わるように」と、この石碑を建てたことを説明。そして「命って一つしかない。一人一人の命が大事だよ」と力を込めました。桃生中で阿部校長は連休前の集会の時に「生きて戻ってきてください」と話していました。その言葉の意味が瑚白さんには実感をもって伝わってきたそうです。
石巻市立桃生中学校の阿部一彦校長(右)から震災体験を聴く生徒たち。
後方にあるのが「女川いのちの石碑」
「私たちは震災を経験した人から話を聞ける世代。被災した人の気持ちを100%理解できなくても『もっと知ろう』と聞くことで少しずつでも近づけるはずだ」。そう感じた瑚白さんは「少年の主張」大会に向けて作文に書こうと決め、震災体験を志乃さんに聞くことにしました。
でも、志乃さんは戸惑います。「もう、あんな思いを誰にもしてほしくない」と経験を伝えたい気持ちがある一方、思い出したくない記憶でもあったからです。それでも、我が子が熱心に相談を持ちかける姿を見て「もう中学生だし、娘の手伝いができたら」と話すことにしました。
震災直後、瑚白さんの妹の瑚志(こゆき)さん(11)の出産予定日が迫る中、女川の実家が跡形もなく流され、がれきの街で両親を捜し回ったこと。出産後は物資不足でミルクさえ手に入らずに不安だったこと……。話したことで心が少し整理され「私も前を向かなきゃ」と思えたそうです。
志乃さんはこうも言います。「震災を経験したからこそ簡単には伝えられないこともある。『責任を持って伝えたい』という娘の姿は頼もしく、娘たちが体験者の話を心で受け止めたことを、年の近い世代に伝える方が響く気がします」
「命のバトンを終わらせたくない」
桃生中では、昨夏の社会科見学後、昼休みや放課後を利用した自主学習活動に、「いのちの大切さを考える会」が加わりました。瑚白さんはリーダーを務めています。震災後生まれの最初の世代である妹に、いつか自分の言葉で語り継ぐことが目標になったそうです。作文の最後にはこう書きました。<命のバトンを、絶対にここで終わらせたくない>
被災地では、災害を体験した人たちが、その記憶や教訓を伝える「語り部」をしています。当事者の声は心に訴える力があり、各地の震災遺構や伝承施設で聞くことができます。被災地に足を運べなくても、文部科学省の「学校安全ポータルサイト」で、若い語り部による「東日本大震災の教訓を語り継ぐ動画教材」が見られます。
文科省は12年に閣議決定された「学校安全の推進に関する計画」で、東日本大震災では徹底した防災教育により危険を免れた学校などがあったことに触れています。その上で「地域で語り継がれてきた災害教訓の中には、地域の特性によらない普遍的な内容も含まれており、それを受け継いでいく中から具体的な対策が見いだされることもある」として、児童・生徒らによる語り継ぎが重要だと指摘しています。
被災地では学校で「語り継ぎ」を進める取り組みも始まっています。宮城県気仙沼市立鹿折(ししおり)中学校は、生徒が震災を体験した地域の人たちにインタビューした内容をまとめ、地元の小学生や大人たちに発表。生まれる前の災害でも、身近な人に聞くことで自分のことと捉えやすくなります。
「誰でも語り継げる」
02年度に開設された兵庫県立舞子高校の環境防災科で、初代科長を務めた諏訪清二さん(62)=防災教育学会会長=は「1期生は阪神大震災があった時、まだ小2でした。授業で『語り継ぐ』をテーマに作文の課題を出したところ、親に初めて体験を聞いた生徒も多くいました。語り継ぐ役割を親だけに期待せず、学校がきっかけを作り、自然と親子で語らうことが大事です」と言います。
その上で、学校教員に対しても「自分は経験していないからと引いてしまうのではなく、先生も、生徒も『誰でも語り継げるんだ』ということを一緒に学んでほしい」と話します。
12年が経とうとし、震災を直接知らない世代が増える中、いかに伝えていくかというのは本当に大切な課題ですね。
【折々のことば・光太郎】
五月十五日に倫敦からこの阿波丸にのり込んで今は地中海の上に居る。七月一日頃神戸着の由。二ヶ月間のうちには君にも会へる訳である。碧い空と紫の水とを見て愉快に日を送つて居る。
明治42年(1909)5月(推定) 水野葉舟宛書簡より 光太郎27歳
明治39年(1906)2月に横浜を出航し、カナダのヴァンクーヴァーから大陸横断鉄道でニューヨークへ。翌年には豪華客船オーシャニックでロンドンに。さらにその翌年、英仏海峡を渡ってパリ。それぞれの都市で約1年ずつを過ごし、最後はおよそ1ヶ月間のイタリア旅行。3年余りの留学も終わりを告げ、ぐるりと地球を一周して日本に帰ります。