淡交社さん発行の『月刊なごみ』。女性向け茶道の雑誌です。早稲田大学名誉教授にして国語学者の中村明氏の連載「手紙の風景 作家のセンスを学ぶ」という連載が為されており、今月号は「弥生の便り 高村光太郎から北原白秋へ」。ちなみに表紙は牧瀬里穂さんです。
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大正2年(1913)3月23日の光太郎書簡の一節が紹介されています。

全文は下記の通り。『高村光太郎全集』に掲載されていました。『なごみ』には色を変えた部分が引用され、中村氏の解説がついています。

大変御無沙汰いたして居ります 先日は「桐の花」を御送り下さつてほんとにうれしく存じました 私達の命は日に日に歩んでゆきます 其故周囲に対する心も日に日に移り変つてゆきますが あなたの芸術に接すると不思議に私の心は如何なる時にも動揺を感じます そしてあなたも(恐らくは)自覚なさらない或る大きな力が私の命に手をかけます 私はいつでもあなたの芸術の尊敬者であり得る事を喜んで居ます もう春が来ました あなたの御健康を心から祈ります 三月二十三日 高村光太郎 北原白秋様机下

白秋の第一歌集『桐の花』の受贈礼状です。巻紙に墨書されています。ちなみに『桐の花』、最初の一首が有名な「春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕」です。

光太郎と白秋、与謝野夫妻の『明星』以来、さらに光太郎が欧米留学から帰国した直後の「パンの会」などでの付き合いでしたが、光太郎は明治44年(1911)には白秋の詩集『邪宗門』の第二版の装幀、挿画を手がけたり、その後も折に触れ、白秋に関わる文章を執筆したりしています。もちろん昭和17年(1942)に白秋が亡くなった際も追悼文を複数書いています。

短歌も。

白秋がくれし雀のたまごなりつまよ二階の出窓にてよめよ

雀のたまご」は本当の卵ではなく、大正10年(1921)に刊行された白秋の歌集『雀の卵』です。上記『桐の花』同様、白秋から贈られた際に、礼状としてこの短歌のみをしたためて返礼としました。粋ですね(笑)。「つま」はもちろん智恵子です。「二階の出窓」は駒込林町の自宅兼アトリエのそれでしょう。

他にも『高村光太郎全集』には、計23通の白秋宛書簡が掲載されています。そのうち21通は明治末から大正末までのもの。明治45年(1912)3月の葉書には、光太郎の自画像も描かれています。
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光太郎、白秋ともども「パンの会」の主要メンバーだった木下杢太郎の戯曲『十一人の偏盲』にふれたものです。杢太郎、この中で光太郎を「二十四歳。また極めて穎悟にして才学あり。諸国の語に通じたれども、黠詐の性格にして一事に固執し難く且自らを優良に観せむとする不断の懸念あり。体格長大にして白皙の美男子。言語動作も亦円滑にして、往々婦女の如き媚容を為す」とおちょくっています。そこで「こん度杢さんに会つたらポカリとひとつ頭をぶたうと思つてます」。

文豪達の若き日の微笑ましい交遊のさまが見て取れますね。

その後、期間が空いて昭和4年(1929)が1通、同15年(1940)で1通です。昭和に入ると光太郎と白秋、それまでより疎遠になったのでしょうか、それとも見つかっていないだけで、まだまだ白秋宛書簡、何処かに眠っているのでしょうか。情報をお持ちの方は御教示いただければ幸いです。

さて、『なごみ』3月号、ぜひお買い求めを。電子版もあるそうです。

【折々のことば・光太郎】

羅馬よりナポリに遊びに参り候。明日はヹスヸオ登山の積り。ホテルの窓より見れば暗き夜の空に大きなる篝火を焚き居る如き火の山に候。明日の好運を祈りて寝ね申すべく候。


明治42年(1909)4月15日 与謝野寛宛書簡より 光太郎27歳

欧米留学最後を締めくくる1ヶ月のイタリア旅行も終盤です。「ヹスヸオ」はヴェスヴィオ山。活火山です。書簡の通り、登ったのかどうかは不明なのですが、およそ40年後の昭和23年(1948)に書かれた詩「噴霧的な夢」では、亡き智恵子とこの山に登った夢を見たことが記されています。曰く「あのしやれた登山電車で智恵子と二人、/ヴエズヴイオの噴火口をのぞきにいつた。/夢といふものは香料のやうに微粒的で/智恵子は二十代の噴霧で濃厚に私を包んだ。/ほそい竹筒のやうな望遠鏡の先からは/ガスの火が噴射機(ジエツト・プレイン)のやうに吹き出てゐた。