動画配信を予定しているというので、それがアップされたら一緒に紹介しようと思っていたのですが、遅れていますので、見切り発車です。先月、花巻市で開催された「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」の報道を。

まず、仙台に本社を置く『河北新報』さん。

高村光太郎はなぜ岩手・花巻へ? 研究家ら対談、宮沢賢治との関連探る

  詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)と宮沢賢治(1896~1933年)とのつながりを考える対談「なぜ光太郎は花巻に来たのか」が14日、岩手県花巻市のなはんプラザであった。
 東京を拠点に顕彰活動をする「高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会」代表の小山弘明氏(58)と、賢治の弟清六さんの孫でカフェ林風舎(花巻市)社長の宮沢和樹氏(58)が登壇。手記や作品を基に、光太郎と賢治との出会いや互いの印象を紹介した。
 東京大空襲でアトリエを失った光太郎は1945年、賢治の実家に疎開。防空壕(ごう)をつくるよう助言した。和樹氏は「清六は避難に備えて、賢治の原稿や手紙をまとめた。資料が残っているのは光太郎の助言があってこそだ」と語った。
 同年の花巻空襲で宮沢家が焼失した後は花巻市太田に山荘を構え、7年半の隠居生活を送った。小山氏は、光太郎が戦意高揚の詩を創作したことに触れ「多くの若者を犠牲にさせたことに後悔し、自ら罰を与えたのではないか」と推察した。
 対談は光太郎の生誕140年を記念し、太田地区振興会が主催。市民約200人が参加した。
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続いて『岩手日報』さん。

花巻での光太郎追う 生誕140年記念対談講演会

 花巻市の太田地区振興会(平賀仁会長)は14日、同市大通りのなはんプラザで高村光太郎生誕140年記念事業・対談講演会「なぜ光太郎は花巻に来たのか」を開いた。
 約200人が参加。彫刻家で詩人の光太郎(1883~1956年)を研究する小山弘明さん(58)=千葉県=と宮沢賢治(1896~1933年)の実弟・清六さんの孫で林風舎代表取締役の宮沢和樹さん(58)が対談した。
 光太郎が宮沢家を頼り同市に疎開し、宮沢賢治全集の出版に助力した逸話などを当時の写真も用いて説明。和樹さんは「光太郎先生が(宮沢家の)自宅に防空壕を設けるアドバイスをしたことで、原稿などが花巻空襲を免れた」と紹介した。
 光太郎が花巻で過ごした7年について、小山さんは「戦争に加担する詩を書いた自らを罰する気持で山荘にこもったのではないか」と持論を述べた。
 同市太田の阿部正文さん(73)は「光太郎先生と幼少の頃に会った記憶がある。名作が世に出る秘話が知れた」と満足した。

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『岩手日日』さん。

宮沢賢治との逸話披露 高村光太郎生誕140年記念講演 

  花巻市の太田地区振興会(平賀仁会長)による講演会「なぜ光太郎は花巻に来たのか」は14日、同市大通りのなはんプラザで開かれた。高村光太郎生誕140年記念事業として初めて開催され、市民ら約200人が来場。高村光太郎連翹忌運営委員会の小山弘明代表(58)と、宮沢賢治の弟清六の孫で林風舎代表取締役の宮沢和樹さん(58)が、賢治と光太郎が知り合うきっかけや逸話を披露した。
 光太郎は1945(昭和20)年の空襲で東京のアトリエを失い、同年5月に賢治の実家を頼り花巻に疎開。終戦後は旧太田村山口の山小屋で約7年間、独居自炊の生活をしながら住民と交流した。
 詩人・草野心平が光太郎に賢治の存在を伝えたことが交流のきっかけになったという。賢治が上京した際、アポイントなしで光太郎のアトリエを訪れたが、小山代表は「(光太郎は)仕事が忙しく、明日また来てくれといって賢治はすぐに帰った。次の日に賢治は来なかった。光太郎もいきなり賢治が訪問してきて、面を食らったのではないか」と推測した。
 光太郎は賢治の実家に疎開した際に、清六に「日本中に爆弾を落とされてもおかしくない。防空壕(ごう)を作るべき」と提言したという。和樹さんは清六に語られた話を思い出しながら「防空壕があったおかげで原稿が戦火から免れた。光太郎先生が祖父に提言しなければ、全て焼けてしまっていた」と説明した。
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動画配信が為されましたら、また改めてご紹介させていただきます。

【折々のことば・光太郎】

今日羅馬に来りたり。古羅馬の偉大なりしを想見して驚かざるを得ず。


明治42年(1909)4月4日 高村道利宛書簡より 光太郎27歳

欧米留学最後を締めくくる1ヶ月のイタリア旅行中、すぐ下の弟・道利に宛てた絵葉書から。この葉書は昨年、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎、海を航る」で展示されました。
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