8月17日(土)、信州上田市のサントミューゼ上田市立美術館さんに「没後100年村山槐多展」を拝見に行きましたが、その前後のレポートを。

盆明けのUターンラッシュの時期ということで、それを避けるため未明のうちに千葉の自宅兼事務所を出ました。2時間ほど愛車を走らせたところで、休憩兼仮眠。そして早朝のうちに長野県に入りました。

上田に行く前に、思い立って上信越道を小諸で下車。有名な懐古園を目指しました。こちらには、光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝となった、髙村豊周の手になる島崎藤村詩碑があります。詩は「小諸なる古城のほとり」(明治38年=1905)です。

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約35年ぶりに拝見。さすがに35年前より苔むしているようで、傍らの標柱的な碑に刻まれた豊周の名も判読しにくくなっていました。

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建立は昭和2年(1927)。豊周が母校・東京美術学校の鋳金科で教壇に立っていた頃の作です。

豊周の回想『自画像』(中央公論美術出版・昭和43年=1968)に拠れば、有島生馬を通じて依頼があり、藤村ファンでもあった豊周、快く引き受けたとのこと。今でこそ珍しくなくなりましたが、ブロンズに蠟型鋳金で鋳造した詩碑というのは、日本初だったということです。有島はせっかくの藤村碑、ありきたりのものにしたくないとの思いから、豊周の鋳金技術に白羽の矢を立てたそうで。

除幕式には有島や、この詩に曲を付けた作曲家の弘田龍太郎、さらに村山槐多の従兄・山本鼎らも出席したそうです。

その後、一般道で上田市へ。

ところで、帰ってきてから、「しまった」と思いました。「小諸」、「豊周」といえば、「疎開」というのを失念しておりまして。豊周の一家、昭和20年(1945)に、現在の長野県中野市に疎開しましたが、中野に落ち着く前の半月ほど、小諸にいたのです。それをすっかり忘れていました。

調べてみましたところ、豊周一家が滞在していたのは「粂屋」という旅館とのこと。何と、健在でした。しかも、江戸時代に脇本陣だった昔の建物をリノベーションしたシャレオツな宿として、実にいい感じに残っています。またあちら方面に行く機会もあろうかと思いますので、その際には見てこようと思いました。

さて、上田。まだサントミューゼさんは開館前の時間でしたので、郊外の塩田平方面に愛車を向けました。こちらには、疎遠になってしまいましたが、父親の実家があります。申し訳ありませんがそちらには寄らず、祖父母・伯父・叔母らの眠る墓に参りました。平成25年(2013)以来、6年ぶりでした。

その後、ほど近い別所温泉へ。

子供の頃からよく入った共同浴場・石湯さん。入湯料たったの150円です。長距離運転の疲れを癒しました。

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池波正太郎の『真田太平記』に何度か登場し、かの真田幸村公がここで「男」になったという設定になっています。

上田電鉄別所線・別所温泉駅。レトロ感あふれるいい感じです。

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静態保存されている車両・モハ5250。

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この丸窓が特徴です。

昭和2年(1927)建造の車両ということですが、この年、光太郎も別所温泉に来ています(宿泊先等は不明)。もしかするとこの車両に乗ったかもしれません。また、昭和2年というと、当方の父はまだ生まれていませんが、祖父母・曾祖父母あたりがもしかすると光太郎と遭遇しているかも知れないな、などと想像をふくらませました(笑)。


その後、塩田平に戻り、父親の実家にほど近い無言館さんへ。


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かつて近くにあって、村山槐多の作品などを展示していた信濃デッサン館さんの姉妹館で、こちらは太平洋戦争で亡くなった戦没画学生の遺作・遺品等が展示されています。

信濃デッサン館さんにはやはり6年前に参りましたが、こちらは約15年ぶりでした。

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遺作が展示されている戦没画学生、多くは東京美術学校西洋画科の出身でした。光太郎も留学前の一時期、彫刻科卒業後に西洋画科に入り直していますので、その意味では光太郎の後輩達です。また、西洋画科以外でも、もろに光太郎の後輩となる彫刻科、さらに豊周の教え子になるであろう鋳金科出身の人々の作品も展示されていました。中には光太郎の書いた翼賛詩文を読んで奮い立った学生や、ことによると出征前に光太郎のアトリエに挨拶に来たなどという学生もいたかも知れません。

画学生というわけでは有りませんでしたが、元埼玉県東松山市の教育長だった故・田口弘氏もそうでした。田口氏はバシー海峡で乗っていた輸送船が撃沈され、九死に一生を得たそうですが、出征前に光太郎に書いて貰った書や署名本などは海の藻屑となったそうです。田口氏は何とか無事に復員されましたが、無言館さんに作品が展示されている人々は、帰って来られなかったわけで……。キャプションを見ると、田口氏と同じようにバシー海峡で船を沈められ、亡くなったという画学生もいました。

東松山と言えば、これらの作品の収集等には、館長の窪島誠一郎氏の他、昨年、東松山でお話を伺った野見山暁治氏が深く関わられています。東京美術学校を繰り上げ卒業で学徒出陣なさった野見山氏の同級生なども含まれているのではないでしょうか。

まだ美術家の卵の時期に戦地に送られ、そのまま帰ってこなかった画学生達。卵ですのでまだまだ技巧的には稚拙だったりするものもあるのですが、そうしたことを超え、訴えかけてくるものがあります。粛然とした思いにさせられました。

この時期だったからでしょうか、意外に多くの来場者がいらしていて、驚きました。中には若い方々も。その方々も熱心に展示をご覧になっていて、まだまだこの国も捨てたものではないと感じました。


その後、市街へ戻り、サントミューゼ上田市立美術館さんへ。昨日のレポートにつながります。

村山槐多展拝観後は、さらに上田に隣接する東御市の健康センターさんで日帰り入浴・仮眠。何とか高速道路の大渋滞も避けながら帰りました。

こうやって呑気に出歩いたりレポートを書いたりしていると、紹介すべき事項がどんどんたまります(笑)。明日以降、また新着情報の紹介に戻ります。

【折々のことば・光太郎】

山だから湿気がひどくて、ふとんなんかべとべとになつてしまう。その中に寝ているのだから、まるで水にくるまつているようなものだ。これは悪いことをしたから水牢に入つているのだと思つて、そんなら我慢できると思つた。
対談「心境を語る」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

花巻郊外旧太田村での蟄居生活についてです。「悪いこと」=大量の翼賛詩文を書いたこと、です。