イベント等が少なくネタ不足の状態ですので、昨日から、逆にネタが多すぎて書く余裕が無かった昨秋のレポートをまとめています。
今日は昨年11月10日(木)、中央区日本橋の三越さん本店内にある三越劇場さんで、一色采子さん、松村雄基さん主演の「朗読劇 智恵子抄」を拝見した前後。周辺の光太郎・光雲ゆかりの場所についてです。
千葉の田舎にある自宅兼事務所から都心までは、高速バスで行くことが多いのですが、本数も限られていますし、時折、高速道路の渋滞に巻き込まれ、遅延が生じます。そこで余裕を持って出て、早く着いたら着いたで目的地周辺で時間を潰すというのが習い性となっています。
この日はまず、小網町方面へ。八重洲地下街のバスターミナルからてくてく歩き、10分少々。日本橋川にかかる鎧橋に到達。
橋のすぐ近く、現在の小網町安田ビルさんのある場所が、かつて「メイゾン鴻乃巣」というカフェでした。光太郎も主要メンバーだった芸術至上主義運動「パンの会」の集いがたびたび開かれた店です。ただ、「パンの会」は広く招待状を発送し、大々的に行う「大会」と、中心メンバーのみが集う「例会」があり、こちらでは「大会」はなかったようです。
ビルの前に説明板。光太郎の名も記されています。
以前にもこの場所を訪れたことがありましたが、やはり感慨深いものがあります。
ちなみに智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』のメンバーだった尾竹紅吉は、ここでカクテル「五色の酒」をあおり、それを『青鞜』誌上にレポートしたところ、「女だてらに!」と、今で言う「炎上」状態。そういう時代でした。
近くには、都心にもかかわらず、空襲の被害を免れたと思われる建物もちらほら。
戦時中に建立された石碑には光雲の名が。
「活動大黒天」、いつかはこの目で見たいものです。
この後、館内の三越劇場さんで「朗読劇 智恵子抄」を拝見しました。その際のレポートがこちら。
帰りがけ、中央ホールも廻りました。こちらには佐藤玄々作の木彫「天女(まごころ)像」。佐藤は光雲の高弟・山崎朝雲に師事していましたので光雲の孫弟子にあたり、光太郎とも交流がありましたが、師の元を離れ、「朝山」の号を「玄々」と改めました。
毀誉褒貶いろいろある像ですが、ど迫力、という意味では他の追随を許さないと思います。
というわけで、都心での光太郎・光雲ゆかりの地廻り。皆様もお時間のあるときにぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
I am sorry i cannot write you in full pages; but you may write me in the same way again; it is as you said, very good idea for studying English. Now, I hope you will be strong, energetic, faithful and noble every day, Your Brother Mitsutaro.
留学先のニューヨークから、実弟にして当時旧制中学校生だった豊周にあてた書簡から。
英語のよい勉強になるから、お互いに英文で手紙をやりとりしようというわけで、いい兄貴ですね。「 I hope you will be strong, energetic, faithful and noble」、自分自身に言い聞かせているようにも感じられます。
今日は昨年11月10日(木)、中央区日本橋の三越さん本店内にある三越劇場さんで、一色采子さん、松村雄基さん主演の「朗読劇 智恵子抄」を拝見した前後。周辺の光太郎・光雲ゆかりの場所についてです。
千葉の田舎にある自宅兼事務所から都心までは、高速バスで行くことが多いのですが、本数も限られていますし、時折、高速道路の渋滞に巻き込まれ、遅延が生じます。そこで余裕を持って出て、早く着いたら着いたで目的地周辺で時間を潰すというのが習い性となっています。
この日はまず、小網町方面へ。八重洲地下街のバスターミナルからてくてく歩き、10分少々。日本橋川にかかる鎧橋に到達。
橋のすぐ近く、現在の小網町安田ビルさんのある場所が、かつて「メイゾン鴻乃巣」というカフェでした。光太郎も主要メンバーだった芸術至上主義運動「パンの会」の集いがたびたび開かれた店です。ただ、「パンの会」は広く招待状を発送し、大々的に行う「大会」と、中心メンバーのみが集う「例会」があり、こちらでは「大会」はなかったようです。
ビルの前に説明板。光太郎の名も記されています。
以前にもこの場所を訪れたことがありましたが、やはり感慨深いものがあります。
ちなみに智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』のメンバーだった尾竹紅吉は、ここでカクテル「五色の酒」をあおり、それを『青鞜』誌上にレポートしたところ、「女だてらに!」と、今で言う「炎上」状態。そういう時代でした。
近くには、都心にもかかわらず、空襲の被害を免れたと思われる建物もちらほら。
通常、非公開でこの日も見ることは叶いませんでしたが、光雲作の「活動大黒天」が安置されています。
戦時中に建立された石碑には光雲の名が。
「活動大黒天」、いつかはこの目で見たいものです。
この後、館内の三越劇場さんで「朗読劇 智恵子抄」を拝見しました。その際のレポートがこちら。
帰りがけ、中央ホールも廻りました。こちらには佐藤玄々作の木彫「天女(まごころ)像」。佐藤は光雲の高弟・山崎朝雲に師事していましたので光雲の孫弟子にあたり、光太郎とも交流がありましたが、師の元を離れ、「朝山」の号を「玄々」と改めました。
毀誉褒貶いろいろある像ですが、ど迫力、という意味では他の追随を許さないと思います。
というわけで、都心での光太郎・光雲ゆかりの地廻り。皆様もお時間のあるときにぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
I am sorry i cannot write you in full pages; but you may write me in the same way again; it is as you said, very good idea for studying English. Now, I hope you will be strong, energetic, faithful and noble every day, Your Brother Mitsutaro.
明治39年(1906)12月24日 高村豊周宛書簡より 光太郎24歳
留学先のニューヨークから、実弟にして当時旧制中学校生だった豊周にあてた書簡から。
英語のよい勉強になるから、お互いに英文で手紙をやりとりしようというわけで、いい兄貴ですね。「 I hope you will be strong, energetic, faithful and noble」、自分自身に言い聞かせているようにも感じられます。