昨日は鎌倉市大船の鎌倉芸術館さんで、「没後35年 高田博厚展」を拝見して参りました。
夭折した碌山荻原守衛を除き、戦前に光太郎が親しく交わった唯一の彫刻家である高田。晩年に鎌倉の稲村ヶ崎にアトリエを構えていた縁での開催です。
会場に入る前に、既に高田作品。おそらくこちらに常設展示されているものでしょう。
受付で出品目録を頂きました。
思っていたより展示点数が多いので、驚きました。
まずは肖像彫刻群。
武者小路実篤、萩原朔太郎など、光太郎とも交流のあった面々の姿も。
続いて、高田の代名詞ともなっているトルソの数々。
ともに360°から鑑賞可能。
光太郎胸像は別室で、こちらはガラスケース入りでした。
昭和35年(1960)の連翹忌で披露されたもので、同型のものは全国に存在します。キャプションに誤字が多いのが残念でしたが……。
何と、高田旧蔵の光太郎ブロンズ作品も展示されていました。大正15年(1926)作の「大倉喜八郎の首」。元々、光雲に木彫による肖像制作の依頼があり、その原型として光太郎が塑造を作ってテラコッタにしたものから、光太郎歿後に実弟の豊周が鋳造し、親しかった人々に配付されたものです。こちらも同型のものが多数存在します。
その他、高田の素描、ロダンなどの高田旧蔵品、光太郎も写った写真パネルなども。
なかなか充実した展示でした。
昨夜、NHKさんの首都圏ニュースで開幕が報じられました。
ちょうど当方が訪れたとき、カメラをセッティングし、撮影のための打ち合わせをなさっているところでした(笑)。
会期があまり長くないのですが、ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
はれる、まだ温、風はやむ、 朝ねてゐる時呼吸はやくなる、左右にねると直る、
宿痾の肺結核、とうとう呼吸困難の状態を引き起こしました。翌日から3月25日まで、1週間は日記も書けない状態だったようで、記載がありません。
夭折した碌山荻原守衛を除き、戦前に光太郎が親しく交わった唯一の彫刻家である高田。晩年に鎌倉の稲村ヶ崎にアトリエを構えていた縁での開催です。
会場に入る前に、既に高田作品。おそらくこちらに常設展示されているものでしょう。
受付で出品目録を頂きました。
思っていたより展示点数が多いので、驚きました。
まずは肖像彫刻群。
武者小路実篤、萩原朔太郎など、光太郎とも交流のあった面々の姿も。
続いて、高田の代名詞ともなっているトルソの数々。
ともに360°から鑑賞可能。
光太郎胸像は別室で、こちらはガラスケース入りでした。
昭和35年(1960)の連翹忌で披露されたもので、同型のものは全国に存在します。キャプションに誤字が多いのが残念でしたが……。
何と、高田旧蔵の光太郎ブロンズ作品も展示されていました。大正15年(1926)作の「大倉喜八郎の首」。元々、光雲に木彫による肖像制作の依頼があり、その原型として光太郎が塑造を作ってテラコッタにしたものから、光太郎歿後に実弟の豊周が鋳造し、親しかった人々に配付されたものです。こちらも同型のものが多数存在します。
その他、高田の素描、ロダンなどの高田旧蔵品、光太郎も写った写真パネルなども。
なかなか充実した展示でした。
昨夜、NHKさんの首都圏ニュースで開幕が報じられました。
高田博厚は日本とフランスを拠点に創作活動を行った彫刻家で、昭和62年に亡くなるまでのおよそ20年間を鎌倉市で過ごしました。
鎌倉市の鎌倉芸術館では、高田博厚の没後35年を記念した展示会が開かれ、市に寄贈された肖像や胴体の彫刻作品など、およそ80点が展示されています。
鎌倉市の鎌倉芸術館では、高田博厚の没後35年を記念した展示会が開かれ、市に寄贈された肖像や胴体の彫刻作品など、およそ80点が展示されています。
また、肖像彫刻には、交友のあったフランスの小説家、ロマン・ロランや、詩人で彫刻家の高村光太郎のブロンズ作品が並び、訪れた人がじっくりと鑑賞していました。
訪れた横浜市の70代の男性は、「以前から著作を読んでいた高田さんのすばらしい作品を身近に見ることができてうれしいです。とてもいい時間になりました」と話していました。
この展示会は、鎌倉芸術館で今月31日まで開かれています。訪れた横浜市の70代の男性は、「以前から著作を読んでいた高田さんのすばらしい作品を身近に見ることができてうれしいです。とてもいい時間になりました」と話していました。
ちょうど当方が訪れたとき、カメラをセッティングし、撮影のための打ち合わせをなさっているところでした(笑)。
会期があまり長くないのですが、ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
はれる、まだ温、風はやむ、 朝ねてゐる時呼吸はやくなる、左右にねると直る、
昭和31年(1956)3月18日の日記より 光太郎74歳
宿痾の肺結核、とうとう呼吸困難の状態を引き起こしました。翌日から3月25日まで、1週間は日記も書けない状態だったようで、記載がありません。