昨日もご紹介した国立国会図書館さんのデジタルコレクションがリニューアルされた件。自宅兼事務所のPCから閲覧出来る資料数が飛躍的に増大し、『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎文筆作品が大量に見つかっています。
すると、智恵子についても驚くべき発見が2件ありました。
まず明治44年(1911)、博文館から出版された『家庭の友 西洋料理法』という書籍。著者は智恵子の母校・日本女子大学校の教授の手塚かね子という人物です。その手塚による序文に次の一節が。
本書の装幀は、女子大学校卒業生にして、専心絵画の研究に身をゆだねられまする長沼ちゑ子女史の巧妙なる図案に成つたものでございます。こゝに厚く感謝の意を表します。
なんとまぁ、結婚前の智恵子がこの書籍の装幀を手がけたというのです。これはこれまでに全く把握していない情報でした。
智恵子による書籍の装幀は、明治40年(1907)、日本女子大学校の同窓会(イベントとしての、ではなく組織としての)である桜楓会から刊行された『三つの泉』という書籍が先例としてありますが、確認出来ているものはそれだけでした。表紙絵を描いたというだけであれば、雑誌『青鞜』も含まれますが。
ところが『家庭の友 西洋料理法』の国会図書館さんのデジタルデータ、元本の破損がひどいらしく、肝心の表紙のデータが掲載されていません。が、他のサイト等で探したところ、不鮮明ながら表紙の画像を見つけることが出来ました。
なるほど、という感じですね。
これはぜひ現物を入手しなくては、と思っております。
もう1件。新たな、というか、これまで未知だった智恵子の写真も見つかりました。しかも撮影年月日、撮影場所が特定出来るものです。
こちらは智恵子ではなく光太郎で検索をかけた際にたどりついたもので、昭和3年(1928)5月発行の雑誌『美術新論』に載ったもの。
キャプションの通り、光太郎の父・光雲の喜寿を祝う祝賀会での撮影、日付はこの年4月16日、場所は日比谷に現在も健在の東京会館さんです。
戦前に亡くなった智恵子の写真はこれまで30葉見つかっていたかどうか、それも少女時代のものが多く、結婚後のものは10葉足らずでしたので、仰天しました。
ちなみにこの日の様子を、光太郎は昭和5年(1930)になって「のつぽの奴は黙つてゐる」という特異な詩に書き表しています。
のつぽの奴は黙つてゐる
何がをかしい、尻尾がをかしい。何が残る、怒が残る。
世間的には成功者、上級国民となった父と、未だ世間には知られざる自分との対比、かつて大正初期には「僕の前に道はない/僕の後に道は出来る」と高らかに謳い、その決意は変わらねど、しかし成功にはほど遠い自らへの怒り、そして自分を認めない俗世間へのアイロニー……。
そんな生活に耐えかねた小柄な智恵子、実家の破産や生涯の仕事と定めた油絵への絶望もあり、この頃から徐々に心が毀れて行きます……。そうしたことに思いを馳せながら上記写真を見ると、感慨深いものがありますね。
というわけで、今後もさらに調査を継続します。
【折々のことば・光太郎】
后北川太一氏くる デユボンネ2本、バースデーケーキをもらふ、一緒にくふ、 辞去後椛沢さんくる、花もらふ、夕方まで、 夜食赤飯(中西さんより)その他野菜煮、
光太郎満73歳の誕生日、そして生涯最後の誕生日でした。
すると、智恵子についても驚くべき発見が2件ありました。
まず明治44年(1911)、博文館から出版された『家庭の友 西洋料理法』という書籍。著者は智恵子の母校・日本女子大学校の教授の手塚かね子という人物です。その手塚による序文に次の一節が。
本書の装幀は、女子大学校卒業生にして、専心絵画の研究に身をゆだねられまする長沼ちゑ子女史の巧妙なる図案に成つたものでございます。こゝに厚く感謝の意を表します。
なんとまぁ、結婚前の智恵子がこの書籍の装幀を手がけたというのです。これはこれまでに全く把握していない情報でした。
智恵子による書籍の装幀は、明治40年(1907)、日本女子大学校の同窓会(イベントとしての、ではなく組織としての)である桜楓会から刊行された『三つの泉』という書籍が先例としてありますが、確認出来ているものはそれだけでした。表紙絵を描いたというだけであれば、雑誌『青鞜』も含まれますが。
ところが『家庭の友 西洋料理法』の国会図書館さんのデジタルデータ、元本の破損がひどいらしく、肝心の表紙のデータが掲載されていません。が、他のサイト等で探したところ、不鮮明ながら表紙の画像を見つけることが出来ました。
なるほど、という感じですね。
これはぜひ現物を入手しなくては、と思っております。
もう1件。新たな、というか、これまで未知だった智恵子の写真も見つかりました。しかも撮影年月日、撮影場所が特定出来るものです。
こちらは智恵子ではなく光太郎で検索をかけた際にたどりついたもので、昭和3年(1928)5月発行の雑誌『美術新論』に載ったもの。
キャプションの通り、光太郎の父・光雲の喜寿を祝う祝賀会での撮影、日付はこの年4月16日、場所は日比谷に現在も健在の東京会館さんです。
戦前に亡くなった智恵子の写真はこれまで30葉見つかっていたかどうか、それも少女時代のものが多く、結婚後のものは10葉足らずでしたので、仰天しました。
ちなみにこの日の様子を、光太郎は昭和5年(1930)になって「のつぽの奴は黙つてゐる」という特異な詩に書き表しています。
のつぽの奴は黙つてゐる
『舞台が遠くてきこえませんな。あの親爺、今日が一生のクライマツクスといふ奴ですな。正三位でしたかな、帝室技藝員で、名誉教授で、金は割かた持つてない相ですが、何しろ佛師屋の職人にしちやあ出世したもんですな。今夜にしたつて、これでお歴々が五六百は来てるでせうな。喜壽の祝なんて冥加な奴ですよ。運がいいんですな、あの頃のあいつの同僚はみんな死んぢまつたぢやありませんか。親爺のうしろに並んでゐるのは何ですかな。へえ、あれが息子達ですか、四十面を下げてるぢやありませんか。何をしてるんでせう。へえ、やつぱり彫刻。ちつとも聞きませんな。なる程、いろんな事をやるのがいけませんな。万能足りて一心足らずてえ奴ですな。いい気な世間見ずな奴でせう。さういへば親爺にちつとも似てませんな。いやにのつぽな貧相な奴ですな。名人二代無し、とはよく言つたもんですな。やれやれ、式は済みましたか。ははあ、今度の余興は、結城孫三郎の人形に、姐さん連の踊ですか。少し前へ出ませうよ。』
『皆さん、食堂をひらきます。』
滿堂の禿あたまと銀器とオールバツクとギヤマンと丸髷と香水と七三と薔薇の花と。
午後九時のニツポン ロココ格天井(がうてんじやう)の食慾。
ステユワードの一本の指、サーヴイスの爆音。
もうもうたるアルコホルの霧。
途方もなく長いスピーチ、スピーチ、スピーチ、スピーチ。
老いたる涙。
老いたる涙。
萬歳。
痲痺に瀕した儀禮の崩壊、隊伍の崩壊、好意の崩壊、世話人同士の我慢の崩壊。
何がをかしい、尻尾がをかしい。何が残る、怒が残る。
腹をきめて時代の曝し者になつたのつぽの奴は黙つてゐる。
往来に立つて夜更けの大熊星を見てゐる。
別の事を考へてゐる。
世間的には成功者、上級国民となった父と、未だ世間には知られざる自分との対比、かつて大正初期には「僕の前に道はない/僕の後に道は出来る」と高らかに謳い、その決意は変わらねど、しかし成功にはほど遠い自らへの怒り、そして自分を認めない俗世間へのアイロニー……。
そんな生活に耐えかねた小柄な智恵子、実家の破産や生涯の仕事と定めた油絵への絶望もあり、この頃から徐々に心が毀れて行きます……。そうしたことに思いを馳せながら上記写真を見ると、感慨深いものがありますね。
というわけで、今後もさらに調査を継続します。
【折々のことば・光太郎】
后北川太一氏くる デユボンネ2本、バースデーケーキをもらふ、一緒にくふ、 辞去後椛沢さんくる、花もらふ、夕方まで、 夜食赤飯(中西さんより)その他野菜煮、
昭和31年(1956)3月13日の日記より 光太郎74歳
光太郎満73歳の誕生日、そして生涯最後の誕生日でした。