国立国会図書館さんのデジタルコレクション。所蔵資料のうち、絶版等で入手困難な資料を中心に、オンラインで閲覧が出来るサービスです。平成14年(2002)に「近代デジタルライブラリー」として始まり、幾たびかの改訂を経てきました。
以前は自宅兼事務所PCで閲覧出来る資料数に限りがあり、国会図書館さんに出向くか、提携している公立図書館さんなどでPCを借りるかして閲覧していましたが、昨年12月に大幅なシステムのリニューアルが為され、飛躍的に対象が増大(それまでは約 5 万点だったものが約 247 万点に)しました。また、「全文検索」ということで、目次に載っていない語もヒットするようになっています。
まだ国会図書館さん内での閲覧しかできない指定になっているものが多いのですが、自宅兼事務所PCで閲覧出来るものも以前とは比較にならない数に増えています。
当方のライフワークの一つが、光太郎の書き残した文筆作品等の集成。当会顧問であらせられ、晩年の光太郎に親炙された故・北川太一先生が、「光太郎ほどの人物の書き残したものは、断簡零墨にいたるまできちんと集成し、次世代にしっかり受け継がねばならない」というスタンスで『高村光太郎全集』の編集をなさいました。ところが平成11年(1999)に増補決定版全集の刊行が終了した頃から、インターネットが普及。当方、ネットを駆使して北川先生のお手伝い――『全集』に洩れていた作品の発掘――に力を注ぐようになりました。平成18年(2006)には光太郎歿後50年を記念し、厚冊の『光太郎遺珠』を北川先生との共編で高村光太郎記念会から刊行、現在は年刊の『高村光太郎研究』に、見つかり続ける作品の紹介をさせていただいております。
さて、国会図書館さんデジタルコレクション。リニューアル後、少しずつ閲覧をしており、埋もれていた光太郎文筆作品、続々と見つかっています。
アンケートや書簡などの短いものが多いのですが、長い文章も。
大正2年(1913)発行の『大正演芸』という雑誌に載った「芸術家としての女優」。4,000字ほどのものです。当時の日本は「女優」という職業の草創期でしたが、要旨としては、もっと女優が普通の存在になり、優れた女優が出て来なければ駄目だ、という提言です。前年、自由劇場で初演されたメーテルリンク作の「タンタジールの死」という舞台に触れています。主人公の女性を歌舞伎の女形・市川松蔦が演じ、そのお付きの女性を初瀬浪子という女優が演じたことに対し、「女優よりも女形の方が甘(うま)いからと言ふ意味で、イグレーヌを松蔦にやらせ、女優にも少しは出来るのが居るからといふ意味で浪子を使つたといふのは、明らかに女優を侮辱してゐる。女優がこんな風に取り扱はれるうちは、日本の女優は駄目である。」と、ばっさり。その他、松井須磨子、山川浦路、森律子、他の散文でも触れているフランスのサラ・ベルナールなどにも触れています。演劇も好きだった光太郎だけに、的確な評です。
短いアンケートや書簡などでも、光太郎の本領発揮。製本に関するアンケートでは「小生の製本に対する希望は糸かがりの堅牢第一に候。中途半端な美本を卑しみ候。」、雑誌に載った大正13年(1924)の木村荘五宛書簡では、荘五実兄にしてかつて吉原の娼妓・若太夫を取り合った木村荘太の著書について「「バルザツク」は集め方も聡明であり、訳も立派で、毎日為事の間によんで、実に愉快に思ひました。それからうける感動が此上もなくいゝ刺激になります。荘太さんの労力に心から感謝してゐます。」。当方、この直前にやはり荘五に送られた葉書を2葉持っており、驚きました。
また、『全集』に収録されていながら不明だった初出掲載誌が判明したものもありました。『全集』第4巻所収の散文「家」。昭和16年(1941)刊行の光太郎の評論集『美について』に収められていたため、『全集』には掲載されていたものの、初出が不明でした。こちらは昭和4年(1929)発行の雑誌『家事及裁縫』中の高橋仁という人物が寄稿した「住宅知識の基調」という文章の中に、「高村光太郎氏は曾て私に次のやうな散文詩を寄せられたことがあります。」として全文が掲載されているのを確認できました。これなど、デジタルコレクションのリニューアルで全文検索が可能になったための成果です。ただ、高橋仁という人物と光太郎の関係、なぜこの散文が贈られたのかなどは不明のままですが。
全文検索、ということになりますと、今回の改訂では、書籍や雑誌の巻末に載った他の書籍や雑誌の広告まで対象になっています。すると、既知の作品に関するヒットが増え、「こんな広告まで対象にしなくていいのに……」と思ったのですが、誤りでした。広告中に載った、その書籍を評した光太郎の推薦文で、『全集』に漏れていたものも2点見つけたのです。
今のところ、昭和の初めまでしか調査が終わっていません。おそらく今後の調査でも多くの未知の作品に出会えると期待しております。
同時に、智恵子についても少し調べてみました。すると、驚くべき発見。明日はそのあたりを。
【折々のことば・光太郎】
余もいつか養清堂にて書のてんらん会をやらんかと思ふ、
「養清堂」は銀座に今も健在の画廊です。
特に晩年、書の世界でも優れた作品を遺した光太郎。そのため、その没後には光太郎の書にスポットを当てた書籍も多数刊行され、それらの中で、この一節は必ずと言っていいほど引用されています。
彫刻の個展にはあまり関心を示さなかった光太郎(その生涯に一度だけ、それも著書を多く刊行してくれた中央公論社への義理立てのような意味で同社の画廊を会場に)でしたが、書の個展に意欲を燃やしていたというわけです。
結局、余命1ヶ月ということで実現出来ませんでしたが、光太郎のその思いを実現するべく、昭和61年(1986)、光太郎の没後30年に合わせ、銀座の鳩居堂画廊で「「高村光太郎「墨の世界」展」が、北川先生らの尽力で開催されました。その後も静岡アートギャラリーさん、花巻高村光太郎記念館さん、そして一昨年には富山県水墨美術館さんで光太郎書の企画展示がなされました。
しかし、いずれも出品点数はさほど多いわけではありませんでした。いずれ光太郎書の全貌をくまなくうかがえる大規模な展示を実現させたいものです。
以前は自宅兼事務所PCで閲覧出来る資料数に限りがあり、国会図書館さんに出向くか、提携している公立図書館さんなどでPCを借りるかして閲覧していましたが、昨年12月に大幅なシステムのリニューアルが為され、飛躍的に対象が増大(それまでは約 5 万点だったものが約 247 万点に)しました。また、「全文検索」ということで、目次に載っていない語もヒットするようになっています。
まだ国会図書館さん内での閲覧しかできない指定になっているものが多いのですが、自宅兼事務所PCで閲覧出来るものも以前とは比較にならない数に増えています。
当方のライフワークの一つが、光太郎の書き残した文筆作品等の集成。当会顧問であらせられ、晩年の光太郎に親炙された故・北川太一先生が、「光太郎ほどの人物の書き残したものは、断簡零墨にいたるまできちんと集成し、次世代にしっかり受け継がねばならない」というスタンスで『高村光太郎全集』の編集をなさいました。ところが平成11年(1999)に増補決定版全集の刊行が終了した頃から、インターネットが普及。当方、ネットを駆使して北川先生のお手伝い――『全集』に洩れていた作品の発掘――に力を注ぐようになりました。平成18年(2006)には光太郎歿後50年を記念し、厚冊の『光太郎遺珠』を北川先生との共編で高村光太郎記念会から刊行、現在は年刊の『高村光太郎研究』に、見つかり続ける作品の紹介をさせていただいております。
さて、国会図書館さんデジタルコレクション。リニューアル後、少しずつ閲覧をしており、埋もれていた光太郎文筆作品、続々と見つかっています。
アンケートや書簡などの短いものが多いのですが、長い文章も。
大正2年(1913)発行の『大正演芸』という雑誌に載った「芸術家としての女優」。4,000字ほどのものです。当時の日本は「女優」という職業の草創期でしたが、要旨としては、もっと女優が普通の存在になり、優れた女優が出て来なければ駄目だ、という提言です。前年、自由劇場で初演されたメーテルリンク作の「タンタジールの死」という舞台に触れています。主人公の女性を歌舞伎の女形・市川松蔦が演じ、そのお付きの女性を初瀬浪子という女優が演じたことに対し、「女優よりも女形の方が甘(うま)いからと言ふ意味で、イグレーヌを松蔦にやらせ、女優にも少しは出来るのが居るからといふ意味で浪子を使つたといふのは、明らかに女優を侮辱してゐる。女優がこんな風に取り扱はれるうちは、日本の女優は駄目である。」と、ばっさり。その他、松井須磨子、山川浦路、森律子、他の散文でも触れているフランスのサラ・ベルナールなどにも触れています。演劇も好きだった光太郎だけに、的確な評です。
短いアンケートや書簡などでも、光太郎の本領発揮。製本に関するアンケートでは「小生の製本に対する希望は糸かがりの堅牢第一に候。中途半端な美本を卑しみ候。」、雑誌に載った大正13年(1924)の木村荘五宛書簡では、荘五実兄にしてかつて吉原の娼妓・若太夫を取り合った木村荘太の著書について「「バルザツク」は集め方も聡明であり、訳も立派で、毎日為事の間によんで、実に愉快に思ひました。それからうける感動が此上もなくいゝ刺激になります。荘太さんの労力に心から感謝してゐます。」。当方、この直前にやはり荘五に送られた葉書を2葉持っており、驚きました。
また、『全集』に収録されていながら不明だった初出掲載誌が判明したものもありました。『全集』第4巻所収の散文「家」。昭和16年(1941)刊行の光太郎の評論集『美について』に収められていたため、『全集』には掲載されていたものの、初出が不明でした。こちらは昭和4年(1929)発行の雑誌『家事及裁縫』中の高橋仁という人物が寄稿した「住宅知識の基調」という文章の中に、「高村光太郎氏は曾て私に次のやうな散文詩を寄せられたことがあります。」として全文が掲載されているのを確認できました。これなど、デジタルコレクションのリニューアルで全文検索が可能になったための成果です。ただ、高橋仁という人物と光太郎の関係、なぜこの散文が贈られたのかなどは不明のままですが。
全文検索、ということになりますと、今回の改訂では、書籍や雑誌の巻末に載った他の書籍や雑誌の広告まで対象になっています。すると、既知の作品に関するヒットが増え、「こんな広告まで対象にしなくていいのに……」と思ったのですが、誤りでした。広告中に載った、その書籍を評した光太郎の推薦文で、『全集』に漏れていたものも2点見つけたのです。
今のところ、昭和の初めまでしか調査が終わっていません。おそらく今後の調査でも多くの未知の作品に出会えると期待しております。
同時に、智恵子についても少し調べてみました。すると、驚くべき発見。明日はそのあたりを。
【折々のことば・光太郎】
余もいつか養清堂にて書のてんらん会をやらんかと思ふ、
昭和31年(1956)3月11日の日記より 光太郎74歳
「養清堂」は銀座に今も健在の画廊です。
特に晩年、書の世界でも優れた作品を遺した光太郎。そのため、その没後には光太郎の書にスポットを当てた書籍も多数刊行され、それらの中で、この一節は必ずと言っていいほど引用されています。
彫刻の個展にはあまり関心を示さなかった光太郎(その生涯に一度だけ、それも著書を多く刊行してくれた中央公論社への義理立てのような意味で同社の画廊を会場に)でしたが、書の個展に意欲を燃やしていたというわけです。
結局、余命1ヶ月ということで実現出来ませんでしたが、光太郎のその思いを実現するべく、昭和61年(1986)、光太郎の没後30年に合わせ、銀座の鳩居堂画廊で「「高村光太郎「墨の世界」展」が、北川先生らの尽力で開催されました。その後も静岡アートギャラリーさん、花巻高村光太郎記念館さん、そして一昨年には富山県水墨美術館さんで光太郎書の企画展示がなされました。
しかし、いずれも出品点数はさほど多いわけではありませんでした。いずれ光太郎書の全貌をくまなくうかがえる大規模な展示を実現させたいものです。