過日ご紹介した、千葉県銚子市犬吠埼の老舗旅館にして光太郎智恵子ゆかりの宿・ぎょうけい館さんの閉館の件につき、確認出来ている限り新聞二紙が光太郎智恵子にからめて報道して下さいました。
まず『読売新聞』さん、閉館直前の1月15日(日)の報道でした。
同館は1874年(明治7年)創業。太平洋を一望できる水郷筑波国定公園内にあり、離島や高所を除けば日本で最も早いとされる初日の出を全客室(33)から眺めることができる。かつては伊藤博文、国木田独歩、島崎藤村ら多くの著名人が滞在。詩集「智恵子抄」を書いた高村光太郎が、後に妻となる智恵子と再会した場所とも伝えられている。過去には囲碁の本因坊戦の開催地にもなった。
同館は株式会社「銚子暁鶏館(ぎょうけいかん)」が所有するが、1986年からは日本ビューホテルグループに運営を委託している。同グループとの運営委託契約を打ち切った。
コロナ禍なども影響したとみられるが、銚子市を代表する観光施設の一つで、閉館を惜しむ声も聞かれる。銚子暁鶏館は、「旅館がある場所は唯一無二の景観を誇る。銚子市の貴重な資産でもあり、できればその資産を生かし続けたい」とし、再開を模索する考えも示している。
続いて『朝日新聞』さん。昨日の千葉版。
まず『読売新聞』さん、閉館直前の1月15日(日)の報道でした。
創業150年近くの歴史を持ち、明治から昭和にかけて多くの著名人が宿泊したことで知られる銚子市犬吠埼の老舗旅館「ぎょうけい館」が、今月16日に旅館営業を終了し、31日に閉館する。
同館は1874年(明治7年)創業。太平洋を一望できる水郷筑波国定公園内にあり、離島や高所を除けば日本で最も早いとされる初日の出を全客室(33)から眺めることができる。かつては伊藤博文、国木田独歩、島崎藤村ら多くの著名人が滞在。詩集「智恵子抄」を書いた高村光太郎が、後に妻となる智恵子と再会した場所とも伝えられている。過去には囲碁の本因坊戦の開催地にもなった。
同館は株式会社「銚子暁鶏館(ぎょうけいかん)」が所有するが、1986年からは日本ビューホテルグループに運営を委託している。同グループとの運営委託契約を打ち切った。
コロナ禍なども影響したとみられるが、銚子市を代表する観光施設の一つで、閉館を惜しむ声も聞かれる。銚子暁鶏館は、「旅館がある場所は唯一無二の景観を誇る。銚子市の貴重な資産でもあり、できればその資産を生かし続けたい」とし、再開を模索する考えも示している。
続いて『朝日新聞』さん。昨日の千葉版。
銚子市犬吠埼の老舗旅館「ぎょうけい館」が16日、営業を終えた。31日に閉館し、149年の歴史に幕を閉じる。伊藤博文や国木田独歩、島崎藤村ら著名人が宿泊したことでも知られるが、銚子市の観光客減少の影響を受けた。
北海道から来た父親と宿泊した成田市の男性(32)は「初めて泊まったら最後だった。また来たかったのに残念」と話した。
同旅館は1874(明治7)年創業。犬吠埼灯台の南側にあり、太平洋を一望できる温泉露天風呂や全33室から海が見渡せる宿として人気だった。
詩人で彫刻家の高村光太郎は1912年、宿に泊まった折、別の宿にいた後の妻となる智恵子と再会し、写生などをして過ごした。「智恵子抄」では「運命のつながり」と書いている。
旅館の所有者は銚子暁鶏館(銚子市)で、86年から日本ビューホテルグループに運営を委託してきた。その委託を終了した。グループ側の斉藤浩文総支配人は「歴史がありリピーターに支えられてきた。明かりはともし続けてほしい」。暁鶏館関係者は「新たな利用方法も含め検討したい」と話すが、具体策は未定だ。
市によると、市内宿泊客数のピークは1985年の58万7千人。団体旅行の減少や東日本大震災、原発事故の風評被害、コロナ禍などが重なり、2021年は11万6千人に。犬吠埼周辺の温泉宿はかつての半分以下の4軒になる。
3枚目の画像は館内に展示されている伊藤博文の書だそうです。下の方にはこちらで行われた囲碁の本因坊戦の写真も。
光太郎智恵子がここに泊まったのは、大正元年(1912)8月末から9月頭にかけて。光太郎は、この年秋に開催されたヒユウザン会展に出品する油絵を描くためでした。父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界と訣別するため、光太郎はこの時期、彫刻より油絵制作を主に行っていました。
光太郎の犬吠行きを聞きつけたであろう智恵子が、すぐ下の妹で智恵子と同じく日本女子大学校(教育学部)を出たセキ、同じく日本女子大学校の英文科を智恵子と同じ明治40年(1907)に卒業した藤井ユウとともに、犬吠にやってきました。最初、三人で暁鶏館とは別の御風館に泊まっていたのですが、セキと藤井が先に帰京、智恵子は光太郎の泊まっていた暁鶏館に移ったといいます。
以前の通説では、この時期、智恵子に地元・福島で医師との縁談があり、煮え切らない態度の光太郎にふんぎりをつけさせるべく、智恵子は縁談を断って光太郎の元に駆けつけたとされていました。しかし、近年の研究で相手の医師にはこの時期既に妻子がいたことが分かっており、その医師との縁談があったとしてももっと前、この時期に縁談がまたあったとしても別の人物が相手、ということになります。また、この時期に縁談が、ということそのものが優柔不断な光太郎に対する智恵子の嘘だった可能性も否定できません。そうだとすると、詩「人に」(原題「N――女史に」)で「いやなんです あなたのいつてしまふのが――」「小鳥のやうに臆病で 大風のやうにわがままな あなたがお嫁にゆくなんて」と謳った光太郎、まんまとしてやられたわけですが(笑)。
光太郎の犬吠からの帰京は9月4日。翌日、編集者の前田晁に送った絵葉書の発見により、特定出来ました。
宛名面に「犬吠でひどい風雨にあひました 昨夕帰つて来ましたら東京の静かなのに驚きました 潮の音のないのがつまりません」としたためられています。
ちなみにまさに暁鶏館で書かれたであろう8月31日付けの絵葉書も一緒に発見。
写真は犬吠埼の北、黒生海岸のものです。
智恵子の方はというと、光太郎と共に帰京したのか、それとも前後して一人で帰ったのか、そのあたりは未だ不明です。
暁鶏館と光太郎、というと、これも以前にも書きましたが、詩「犬吠の太郎」。光太郎が犬吠を訪れた際に暁鶏館の風呂番をしていた本名・阿部清助、通称「長崎の太郎」(長崎は犬吠の南の地名ですが、それではわかりにくいので「犬吠の」としたのでしょう)をモデルにした詩です。太郎は会津藩士の息子でしたが、知的障害があり、曲馬団のビラ配りや暁鶏館での下働きなどをしていました。
ぎょうけい館さんのエントランスホールには、隣接する旭市ご出身の版画家・土屋金司氏の版画「犬吠の太郎」が飾られていたはずでしたが……。
さて、ぎょうけい館さん、上記新聞記事には「再開を模索する考え」「新たな利用方法も含め検討」という記述もありますので、このまま廃墟になったり、取り壊されて更地になったりということにはならないでほしいものです。できればやはり旅館として存続してほしいのですが……。
【折々のことば・光太郎】
今日は誰も来ず、しづかに原稿かき、「焼失作品おぼえ書」20枚かき終る、
「焼失作品おぼえ書」は、この年4月、5月の雑誌『新潮』に載りました。戦災や金属供出で失われた自作の彫刻の数々について、淡々と語るものです。発表された散文としては最後のものとなりました。ただし、翌月、死の4日前に追加で1枚を書き足しています。
昭和20年(1945)の空襲で駒込林町の住居兼アトリエが全焼した際は、多くの彫刻が焼失したことをむしろさばさばした思いで捉えていた光太郎ですが、もはや彫刻制作不可能となった死の床での、かつて自らの手で生み出された造型の数々に対する思いは、読む者の胸を打ちます。
3枚目の画像は館内に展示されている伊藤博文の書だそうです。下の方にはこちらで行われた囲碁の本因坊戦の写真も。
光太郎智恵子がここに泊まったのは、大正元年(1912)8月末から9月頭にかけて。光太郎は、この年秋に開催されたヒユウザン会展に出品する油絵を描くためでした。父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界と訣別するため、光太郎はこの時期、彫刻より油絵制作を主に行っていました。
光太郎の犬吠行きを聞きつけたであろう智恵子が、すぐ下の妹で智恵子と同じく日本女子大学校(教育学部)を出たセキ、同じく日本女子大学校の英文科を智恵子と同じ明治40年(1907)に卒業した藤井ユウとともに、犬吠にやってきました。最初、三人で暁鶏館とは別の御風館に泊まっていたのですが、セキと藤井が先に帰京、智恵子は光太郎の泊まっていた暁鶏館に移ったといいます。
以前の通説では、この時期、智恵子に地元・福島で医師との縁談があり、煮え切らない態度の光太郎にふんぎりをつけさせるべく、智恵子は縁談を断って光太郎の元に駆けつけたとされていました。しかし、近年の研究で相手の医師にはこの時期既に妻子がいたことが分かっており、その医師との縁談があったとしてももっと前、この時期に縁談がまたあったとしても別の人物が相手、ということになります。また、この時期に縁談が、ということそのものが優柔不断な光太郎に対する智恵子の嘘だった可能性も否定できません。そうだとすると、詩「人に」(原題「N――女史に」)で「いやなんです あなたのいつてしまふのが――」「小鳥のやうに臆病で 大風のやうにわがままな あなたがお嫁にゆくなんて」と謳った光太郎、まんまとしてやられたわけですが(笑)。
光太郎の犬吠からの帰京は9月4日。翌日、編集者の前田晁に送った絵葉書の発見により、特定出来ました。
宛名面に「犬吠でひどい風雨にあひました 昨夕帰つて来ましたら東京の静かなのに驚きました 潮の音のないのがつまりません」としたためられています。
ちなみにまさに暁鶏館で書かれたであろう8月31日付けの絵葉書も一緒に発見。
写真は犬吠埼の北、黒生海岸のものです。
智恵子の方はというと、光太郎と共に帰京したのか、それとも前後して一人で帰ったのか、そのあたりは未だ不明です。
暁鶏館と光太郎、というと、これも以前にも書きましたが、詩「犬吠の太郎」。光太郎が犬吠を訪れた際に暁鶏館の風呂番をしていた本名・阿部清助、通称「長崎の太郎」(長崎は犬吠の南の地名ですが、それではわかりにくいので「犬吠の」としたのでしょう)をモデルにした詩です。太郎は会津藩士の息子でしたが、知的障害があり、曲馬団のビラ配りや暁鶏館での下働きなどをしていました。
ぎょうけい館さんのエントランスホールには、隣接する旭市ご出身の版画家・土屋金司氏の版画「犬吠の太郎」が飾られていたはずでしたが……。
さて、ぎょうけい館さん、上記新聞記事には「再開を模索する考え」「新たな利用方法も含め検討」という記述もありますので、このまま廃墟になったり、取り壊されて更地になったりということにはならないでほしいものです。できればやはり旅館として存続してほしいのですが……。
【折々のことば・光太郎】
今日は誰も来ず、しづかに原稿かき、「焼失作品おぼえ書」20枚かき終る、
昭和31年(1956)2月26日の日記より 光太郎74歳
「焼失作品おぼえ書」は、この年4月、5月の雑誌『新潮』に載りました。戦災や金属供出で失われた自作の彫刻の数々について、淡々と語るものです。発表された散文としては最後のものとなりました。ただし、翌月、死の4日前に追加で1枚を書き足しています。
昭和20年(1945)の空襲で駒込林町の住居兼アトリエが全焼した際は、多くの彫刻が焼失したことをむしろさばさばした思いで捉えていた光太郎ですが、もはや彫刻制作不可能となった死の床での、かつて自らの手で生み出された造型の数々に対する思いは、読む者の胸を打ちます。