2023年、令和5年となりました。本年もよろしくお願い申し上げます。
画像は今年の年賀状。竹橋の東京国立勤惰美術館さん所蔵の光太郎木彫「兎」です。
未だコロナ禍明けやらぬ感がありますが、3年間中止としてきた連翹忌の集い(4月2日(日))、今年こそは実施したく存じます。
さて、今年は明治16年(1883)出生の光太郎生誕140周年となります。これから企画展示等の計画に着手される皆様、その点を推しにしていただければと存じます。
それ以外に光太郎がらみはどんな周年になるか調べてみました。
130年前 明治26年(1893) 光太郎11歳 智恵子8歳
光太郎の父・光雲が、シカゴ万博出品作の木彫「老猿」を完成させました。また、光雲が主任となって東京美術学校として引き受けた「楠木正成銅像」の木型が完成し、宮中で天覧に供されました。
また、智恵子が数え8歳で福島県安達郡油井村(現・二本松市)の油井小学校に入学しました。
120年前 明治36年(1903) 光太郎21歳 智恵子18歳
東京美術学校在学中の光太郎が、海外の雑誌に載ったロダンの彫刻作品の写真を初めて目にしました。
智恵子は福島高等女学校を首席で卒業し、日本女子大学校に入学しました。
110年前 大正2年(1913) 光太郎31歳 智恵子28歳
光太郎智恵子、一夏を信州上高地で過ごし、婚約を果たしました。
光太郎は解散したフユウザン会に代わって、岸田劉生らと生活社を興しました。
100年前 大正12年(1923) 光太郎41歳 智恵子38歳
光太郎が有島武郎にブロンズの「手」を贈りました。有島もそれに応えて詩「手」を書きましたが、その後、自ら命を絶ちました。
結婚以来途絶えていた「智恵子抄」収録詩篇でしたが、「樹下の二人」が書かれ、復活しました。
9月には関東大震災。光太郎は福島の智恵子の実家・長沼酒造から酒を取り寄せ、にわか酒屋を始めました。
90年前 昭和8年(1933) 光太郎51歳 智恵子48歳
心を病んでいた智恵子の状態が芳しくなく、先に自分が逝ってしまった場合の遺産相続等を考え、光太郎はそれまでの事実婚に終止符を打ち、婚姻届を提出しました。
心を病んでいた智恵子を伴って、東北・北関東の温泉巡りをしました。廻ったのは5月には草津温泉、8月から9月にかけては磐梯川上温泉、蔵王青根温泉、不動湯温泉、塩原温泉でした。
9月には花巻で宮沢賢治が没。智恵子の世話にかかりきりの光太郎は、当会の祖・草野心平を自分の名代として花巻に遣りました。
80年前 昭和18年(1943) 光太郎61歳
太平洋戦争中。黒歴史の最たるもの、翼賛詩集『をぢさんの詩』を刊行しました。
70年前 昭和28年(1953) 光太郎71歳
青森県十和田湖畔に、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が除幕されました。
というわけで、光太郎生誕140周年と共に、「乙女の像」が古稀を迎えます。そのあたり前面に押し出してのイベント等企画していただけるとありがたいのですが……。
何はともあれ、本年もよろしくお願い申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
后北川太一氏新婚の細君同伴来訪、二本松訪問の話をきく、果物、はんぺん等もらふ。
当会顧問であらせられた故・北川太一先生。奥様の故・節子様ともども新婚の挨拶に光太郎を訪問されました。「二本松訪問」はお二人の新婚旅行でした。
画像は今年の年賀状。竹橋の東京国立勤惰美術館さん所蔵の光太郎木彫「兎」です。
未だコロナ禍明けやらぬ感がありますが、3年間中止としてきた連翹忌の集い(4月2日(日))、今年こそは実施したく存じます。
さて、今年は明治16年(1883)出生の光太郎生誕140周年となります。これから企画展示等の計画に着手される皆様、その点を推しにしていただければと存じます。
それ以外に光太郎がらみはどんな周年になるか調べてみました。
130年前 明治26年(1893) 光太郎11歳 智恵子8歳
光太郎の父・光雲が、シカゴ万博出品作の木彫「老猿」を完成させました。また、光雲が主任となって東京美術学校として引き受けた「楠木正成銅像」の木型が完成し、宮中で天覧に供されました。
また、智恵子が数え8歳で福島県安達郡油井村(現・二本松市)の油井小学校に入学しました。
120年前 明治36年(1903) 光太郎21歳 智恵子18歳
東京美術学校在学中の光太郎が、海外の雑誌に載ったロダンの彫刻作品の写真を初めて目にしました。
智恵子は福島高等女学校を首席で卒業し、日本女子大学校に入学しました。
110年前 大正2年(1913) 光太郎31歳 智恵子28歳
光太郎智恵子、一夏を信州上高地で過ごし、婚約を果たしました。
光太郎は解散したフユウザン会に代わって、岸田劉生らと生活社を興しました。
100年前 大正12年(1923) 光太郎41歳 智恵子38歳
光太郎が有島武郎にブロンズの「手」を贈りました。有島もそれに応えて詩「手」を書きましたが、その後、自ら命を絶ちました。
結婚以来途絶えていた「智恵子抄」収録詩篇でしたが、「樹下の二人」が書かれ、復活しました。
9月には関東大震災。光太郎は福島の智恵子の実家・長沼酒造から酒を取り寄せ、にわか酒屋を始めました。
90年前 昭和8年(1933) 光太郎51歳 智恵子48歳
心を病んでいた智恵子の状態が芳しくなく、先に自分が逝ってしまった場合の遺産相続等を考え、光太郎はそれまでの事実婚に終止符を打ち、婚姻届を提出しました。
心を病んでいた智恵子を伴って、東北・北関東の温泉巡りをしました。廻ったのは5月には草津温泉、8月から9月にかけては磐梯川上温泉、蔵王青根温泉、不動湯温泉、塩原温泉でした。
9月には花巻で宮沢賢治が没。智恵子の世話にかかりきりの光太郎は、当会の祖・草野心平を自分の名代として花巻に遣りました。
80年前 昭和18年(1943) 光太郎61歳
太平洋戦争中。黒歴史の最たるもの、翼賛詩集『をぢさんの詩』を刊行しました。
70年前 昭和28年(1953) 光太郎71歳
青森県十和田湖畔に、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が除幕されました。
というわけで、光太郎生誕140周年と共に、「乙女の像」が古稀を迎えます。そのあたり前面に押し出してのイベント等企画していただけるとありがたいのですが……。
何はともあれ、本年もよろしくお願い申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
后北川太一氏新婚の細君同伴来訪、二本松訪問の話をきく、果物、はんぺん等もらふ。
昭和30年(1955)10月27日の日記より 光太郎73歳
当会顧問であらせられた故・北川太一先生。奥様の故・節子様ともども新婚の挨拶に光太郎を訪問されました。「二本松訪問」はお二人の新婚旅行でした。