先週になりますが、地方紙二紙の一面コラムで光太郎に触れて下さいました。
12月6日(火)、仙台に本社を置く『河北新報』さん。
このところの気候は、いかにも「きつぱりと冬が来た」ですね。画像は自宅兼事務所近くのイチョウの古木です。こちらもまさしく「箒」になってしまいました。
続いて、『東京新聞』さん。12月8日(木)付けです。
まさにわが意を得たり、という内容でした。そこで、12月10日(土)に行われた日本詩人クラブさんの12月例会での講演で紹介させていただきました。
さて、もう1件。
過日ご紹介した杉並区立郷土博物館さんでの企画展「生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並」。明後日開幕ですが、その予告報道が共同通信さんから配信され、全国の地方紙に載ったようです。
【折々のことば・光太郎】
転出証明書瀬川さんより届く、
「転出」は、戦後7年間の蟄居生活を送った岩手から東京中野へ、です。
元々、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」完成後は、岩手に帰るつもりでいた光太郎、実際、像除幕後の昭和28年(1953)初冬に10日間ほど帰ったのですが、宿痾の肺結核の悪化が山での暮らしを許さず、再々上京していました。それでも住民票を移動させずにいましたが、もはや身体の状況が山へ帰ることは不可能なほど悪化しているという自覚があったのでしょう、岩手の知人を介し、とうとう転出届けを出しました。届けの日付は6月1日だったことが、『高村光太郎全集』に漏れていた葉書の発見により、10年ほど前に明らかに出来ました。
また、かつて光太郎が暮らしていた稗貫郡太田村は前年に周辺の村とともに花巻町に合併、花巻市となったことも転出の一因と思われます。もはや太田村が無い、というのは光太郎にとって淋しかったのではないでしょうか。
12月6日(火)、仙台に本社を置く『河北新報』さん。
葉を落とし「箒(ほうき)」になった姿に、詩人高村光太郎は<きつぱりと冬が来た>と詠んだ。イチョウが季節の移ろいを告げている。葉がカモの水かきに似ていることに由来する中国の「鴨脚」の発音が語源とされる▼仙台藩出身で日本初の近代的国語辞書『言海』を編んだ大槻文彦(1847~1928年)はイチョウの語源に「脳を悩まし」「満腹の疑い」を抱き続けていた。増訂版となる『大言海』では「鴨脚の字の、支那、宋代の音なり」と示し、記す▼「此語原は、予が三四十年間、苦心して得たるものなり」。永島道男著『言葉の大海へ「大言海」を愉しむ』に詳しい。「辞書の中に筆者が顔を出すなんて」信じられないけれど、「苦心の、苦心の、苦心の末に解明したのですからわかってあげたい」とも▼文彦、祖父の蘭(らん)学者玄沢、父の儒学者磐渓。「三賢人」を輩出した大槻家関係資料(一関市博物館所蔵)が国の重要文化財に決まった。『大言海』草稿など4000点を超える▼文彦は玄沢の遺戒「遂げずばやまじ、の精神」で編さんしたと、『言海』の巻末「ことばのうみのおくがき」に書く。必ず最後までやり遂げよ。求められるのは決意、責の重さへの自覚と覚悟か。職を去った閣僚たちを他山の石に、遺戒を心にきっぱりと刻もう。
このところの気候は、いかにも「きつぱりと冬が来た」ですね。画像は自宅兼事務所近くのイチョウの古木です。こちらもまさしく「箒」になってしまいました。
続いて、『東京新聞』さん。12月8日(木)付けです。
「記憶せよ、十二月八日/この日世界の歴史あらたまる/アングロ・サクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる」−。高村光太郎の詩である。一九四一年、真珠湾攻撃への興奮が伝わってくる▼真珠湾攻撃の日である。光太郎に限らず、その日、日本人は熱狂した。長年の米英による圧力。その閉塞(へいそく)感を打ち破る奇襲に対し、国民は胸のすくような思いとなった。分からないでもない。しかし、それが国民に塗炭の苦しみを与える悲劇の入り口であった▼あの時代にむしろ近づいてはいないか。弾道ミサイルなどの発射拠点を攻撃する敵基地攻撃能力の保有をめぐる議論が進む▼共同通信の世論調査によると約六割が敵基地攻撃能力の保有を容認している。弾道ミサイルが発射される前に基地を攻撃することができれば、国民はより安全になるはず。そう考えるのも理解できる。自衛のためと言われれば、反対もしにくい▼それでも身構えるべきはそれが専守防衛の枠組みを超え、国際法の禁じる先制攻撃と結果的に何も変わらぬ危険性があることだろう▼ミサイル発射の動きを見て敵基地を攻撃したとする。それで敵国がわが国への攻撃を断念してくれるとは考えにくく、待っているのはわが国の敵基地攻撃に端を発した長きにわたる戦争状態ではないのか。臆病か。されど、悲劇の入り口に二度と近づきたくないのである。
まさにわが意を得たり、という内容でした。そこで、12月10日(土)に行われた日本詩人クラブさんの12月例会での講演で紹介させていただきました。
さて、もう1件。
過日ご紹介した杉並区立郷土博物館さんでの企画展「生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並」。明後日開幕ですが、その予告報道が共同通信さんから配信され、全国の地方紙に載ったようです。
山と自然を題材にした詩や散文で知られた尾崎喜八(1892~1974年)の回顧展「生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並」が17日から、東京・杉並区立郷土博物館で開かれる。2023年2月19日まで。尾崎の子孫から寄贈された多数の資料を公開する。
尾崎はクラシック音楽を巡る随想、外国文学の翻訳も手がけた他、写真にも関心を寄せ、山野の植物、雲、長く住んだ杉並の農村風景などを数多く撮影した。
本展は自ら撮影した写真約60点、著書約50点、詩人で彫刻家の高村光太郎から贈られた彫刻や、詩人でドイツ・フランス文学者の片山敏彦、詩人・歌人で野鳥研究家の中西悟堂らとの交遊を示す写真やはがき、フランスの作家ロマン・ロランからの手紙などで構成する。
尾崎は東京市京橋区(現東京都中央区)で生まれ、商業学校を卒業した後、会社勤めをしながら文学活動を始めた。代表作に詩集「花咲ける孤独」(55年)、随筆集「山の絵本」(35年)、随筆「音楽への愛と感謝」(73年)がある。
関東大震災後から終戦前年まで、実家へ戻った間を除いて現在の杉並区に在住。戦後は長野県富士見村(現富士見町)で足かけ7年過ごし、数々の作品を書いた。その後東京に戻り、晩年は神奈川県鎌倉市で暮らした。
担当の学芸員は「尾崎の業績全般を知ってもらいたい。地元杉並の人や詩に関心のある人はもちろん、写真関係の方にも見ていただけるとうれしい」と話している。
観覧料100円。休館日は月曜と第3木曜(祝日の場合は翌日)、12月28日~1月4日。
ぜひ足をお運び下さい。【折々のことば・光太郎】
転出証明書瀬川さんより届く、
昭和30年(1955)6月4日の日記より 光太郎73歳
「転出」は、戦後7年間の蟄居生活を送った岩手から東京中野へ、です。
元々、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」完成後は、岩手に帰るつもりでいた光太郎、実際、像除幕後の昭和28年(1953)初冬に10日間ほど帰ったのですが、宿痾の肺結核の悪化が山での暮らしを許さず、再々上京していました。それでも住民票を移動させずにいましたが、もはや身体の状況が山へ帰ることは不可能なほど悪化しているという自覚があったのでしょう、岩手の知人を介し、とうとう転出届けを出しました。届けの日付は6月1日だったことが、『高村光太郎全集』に漏れていた葉書の発見により、10年ほど前に明らかに出来ました。
また、かつて光太郎が暮らしていた稗貫郡太田村は前年に周辺の村とともに花巻町に合併、花巻市となったことも転出の一因と思われます。もはや太田村が無い、というのは光太郎にとって淋しかったのではないでしょうか。