11月20日(日)、『日本経済新聞』さんの日曜版的なページに、2面ぶち抜きで光太郎が大きく取り上げられました。「美の粋」と題した連載の一環のようでした。
光太郎について、非常にわかりやすくポイントを抑えて紹介されています。長いので2回に分けてご紹介しますが、今日は芸術至上主義運動「パンの会」のメンバーとして活動していた青年期。
後半は「西洋の精神に加え父譲りの木彫技術」と題し、ロダンへの感化以前から、光太郎彫刻のバックボーンとして身体にしみ込んでいた伝統的木彫技術、それを叩き込んだ父・光雲との関わりが紹介されます。また、光雲と同様、光太郎の人生に大きな影響を与えた妻・智恵子についても。
その後半部分は明日、ご紹介します。
【折々のことば・光太郎】
光太郎について、非常にわかりやすくポイントを抑えて紹介されています。長いので2回に分けてご紹介しますが、今日は芸術至上主義運動「パンの会」のメンバーとして活動していた青年期。
美の粋 パンの会 文学との響き合い(下) 高村光太郎、作家の主観を重視 メンバーの間で「生の芸術」論争
「パンの会」発足は1908年(明治41年)12月である。彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956)は当時、パリ留学中だったから参加していない。加わるのは帰国した09年。雑誌「スバル」に評論などを発表したのが縁で、両方のメンバーだった詩人・歌人の木下杢太郎から誘われたとみられる。
ブロンズ、木彫を手がける彫刻家であるとともに、「道程」(14年)、「智恵子抄」(41年)などで知られる詩人でもあった光太郎。彼自身は「私は何を措(お)いても彫刻家である。(略)彫刻を文学から独立せしめるために、詩を書くのである」(「自分と詩との関係」=「昭和文学全集」第4巻に所収)と記しているが、文学と美術の響き合いを目指した「パンの会」を一人で体現する存在といえるだろう。
光太郎は、「ヒウザン会とパンの会」(同書に所収)で「パンの会」をこう振り返っている。
「当時、素晴らしい反響を各方面に与え、一種の憧憬を以て各方面の人士が集ったもので、少い時で十五六人、多い時は四五十人にも達した」
その文章では「失はれたるモナ・リザ」という詩のモデルとなった吉原遊郭の娼妓・若太夫との恋愛と別離についても触れている。彼女を光太郎から奪ったのは「パンの会」のメンバー、作家の木村荘太だった。
10年に「スバル」に発表した光太郎の評論「緑色の太陽」は「僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めている」と記した。美術家が自らの信じるままに表現することを求めたこの文章は、日本に於ける印象派宣言として注目された。
注目されるのは、そこで「パンの会」創設メンバー、洋画家・版画家の石井柏亭に言及していることだ。光太郎は柏亭が重視する「地方色(ローカルカラー)」、すなわち日本の絵が持つ独自性の存在は認めるが、そこに価値は認めないと主張する。
論争のきっかけは、洋画家の山脇信徳が09年の第3回文部省美術展覧会(文展)に出品した「停車場の朝」。クロード・モネ「サン・ラザール駅」を思わせるこの絵を、陶芸家のバーナード・リーチ、作家の永井荷風らは高く評価したが、柏亭らは認めなかった。
光太郎は「『天の光』を写そうとする努力が尊い」と山脇を弁護したが、柏亭は美術・文芸雑誌「方寸」で反論する。それへの再反論が「緑色の太陽」だった。光太郎は「DAS LEBEN(生命)の量」で絵を評価したいと記す。その後、杢太郎や作家の武者小路実篤らを巻き込んで繰り広げられた議論は「生の芸術」論争と呼ばれた。
光太郎は「『天の光』を写そうとする努力が尊い」と山脇を弁護したが、柏亭は美術・文芸雑誌「方寸」で反論する。それへの再反論が「緑色の太陽」だった。光太郎は「DAS LEBEN(生命)の量」で絵を評価したいと記す。その後、杢太郎や作家の武者小路実篤らを巻き込んで繰り広げられた議論は「生の芸術」論争と呼ばれた。
光太郎が山脇の絵以上に「生の芸術」だと捉えていたのは10年に30歳で亡くなった荻原守衛(碌山)の彫刻だ。碌山は留学中にフランスの彫刻家オーギュスト・ロダンに会った。光太郎は碌山の作品に長年敬愛するロダンと同じ魂の輝きを感じていたのだろう。
光太郎は武者小路や作家の志賀直哉らが10年に創刊した文芸・美術雑誌「白樺(しらかば)」でロダンを紹介する。
「光太郎は日本の近代彫刻の扉を開いた一人です。対象をアウトラインとして表現するのではなく、かたまりとしてどう捉えるかを重視した。『私』の中で確認するという感覚的な手法はゴッホからの影響が感じられます」。彫刻家でもある岩手県立美術館館長の藁谷収さんはそうみる。
5本の指がそれぞれ異なった曲がり具合、伸び具合を示す左手を表現した「手」は光太郎の代表作の一つだ。その絶妙なかたちによって「手という本来は表面的なものを題材に立体的な彫刻を生み出しています」(藁谷さん)。
その独特な形は作家の強い意志や内に秘めた生命力を感じさせ、ロダンの思想をうかがわせる。一方で手のひらなどの滑らかな部分には木彫からの影響が見られ、光太郎自身も仏像の印相の一つである施無畏印をヒントに東洋的技法で近代的感覚を表現したと語っている。東洋と西洋の折衷が光太郎独自の彫刻を生み出したわけだ。
文展で活躍し、東京美術学校(現・東京藝術大学)教授を務めた彫刻家・朝倉文夫とは、光太郎の朝倉への歯に衣(きぬ)着せぬ批評もあり、微妙な関係にあったとされる。もっとも生前作られた「手」のうち1体を所有していたのは朝倉。光太郎をひそかにライバル視していたのだろう。
後半は「西洋の精神に加え父譲りの木彫技術」と題し、ロダンへの感化以前から、光太郎彫刻のバックボーンとして身体にしみ込んでいた伝統的木彫技術、それを叩き込んだ父・光雲との関わりが紹介されます。また、光雲と同様、光太郎の人生に大きな影響を与えた妻・智恵子についても。
その後半部分は明日、ご紹介します。
【折々のことば・光太郎】
七時に一寸おき食事、又ねて十一時おきる、 ポストまで外出、 足のゆび痛む、油脂剤をつける、
昭和30年(1955)3月1日の日記より 光太郎73歳
結核の症状は一進一退で、小康状態と重篤状態をくり返し、しかし快方には向かわず少しずつ昂進して行ったようです。光太郎が二度寝するのは珍しいことでしたし、郵便物の投函に出たこの日以降、また10日ほど外出不能になっています。