新聞報道を2件、ともに現在開催中の企画展示を紹介するものです。
まず、福岡は北原白秋生家・記念館さんの「北原白秋没後80年特別企画展~白秋と若き文士たち~」。『読売新聞』さんの福岡版から。
【折々のことば・光太郎】
午后永瀬清子さんくる、来月インド行の由、
永瀬清子は現在の岡山県赤磐市出身の詩人。光太郎とは戦前から交流がありました。永瀬が光太郎の借りていた貸しアトリエを訪れたのは、前年に続き二度目。「インド行」は、ニューデリーで開催され、植民地主義、原水爆問題など、アジアに共通する問題について意見交換する趣旨だった「アジア諸国民会議」に「婦人団体代表」として永瀬が参加したことを指します。
この日、永瀬に贈ったはなむけの言葉が、永瀬の主宰していた地方詩誌『黄薔薇』のこの年4月号に掲載されました。曰く「裏の山へ植林にいくようなお気持ちでいつてゐらつしやい」。なかなかそうも行かないと思うのですが(笑)。
まず、福岡は北原白秋生家・記念館さんの「北原白秋没後80年特別企画展~白秋と若き文士たち~」。『読売新聞』さんの福岡版から。
北原白秋没後80年記念、ゲーム「文豪とアルケミスト」とタイアップ企画展…柳川・生家にキャラ等身大パネルも
柳川市出身の詩人・北原白秋の没後80年を記念し、人気オンラインゲームとタイアップした特別企画展「~白秋と若き文士たち~」が、同市の北原白秋生家・記念館で開かれている。来年3月末まで。
ゲームは「文豪とアルケミスト」で、本の中の世界を破壊する「 侵蝕(しんしょく)者」と、アルケミスト(錬金術師)の力でこの世に転生した文豪たちが戦う内容。ゲームを配信する合同会社「EXNOA」(東京)の協力で企画展が実現した。
白秋の青春時代にスポットを当て、ゲームに登場する白秋や吉井勇、高村光太郎、室生犀星(さいせい )、萩原朔太郎(さくたろう)の等身大キャラクターパネルを展示。5人の作品や交流を、与謝野鉄幹が結成した新詩社の機関誌「明星」、青年文学者らの懇談会「パンの会」、白秋主宰の文芸雑誌「 朱欒(ザムボア)」の三つの時代に分けて紹介している。
同館は「芸術の自由と享楽の権利を 謳歌(おうか)した若き文士たちの作品を、白秋生家のたたずまいとともに楽しんでほしい」と来場を呼びかけている。
来館者には非売品のしおりをプレゼントするほか、クリアファイルやポストカードといったゲームとのコラボグッズも販売している。
また、来年1月末まで「交声曲『海道東征』」展も同時開催している。「海道東征」は、晩年の白秋が病魔と闘いながら、1940年の皇紀2600年を祝って作った長編詩。「海ゆかば」などで知られる 信時潔(のぶとききよし)が、合唱や管弦楽のための交声曲として作曲を手がけた。
展示会では、関連書籍やレコード、白秋が晩年まで愛用した机や原稿、仕事着など約30点が並ぶ。12月4日には柳川市内で初の演奏会が予定されている。
開館時間は午前9時~午後5時。入館料は大人600円、高校・大学生450円、小中学生250円。問い合わせは同館( 0944・72・6773 )へ。
続いて、文京区立森鷗外記念館さんで開催されている「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」。共同通信さんの配信記事で、全国の地方紙に掲載されたようです。神奈川近代文学館さんで開催されていた「没後50年 川端康成展 虹をつむぐ人」展のレポートと2本立てでしたが、そちらは割愛します。
続いて、文京区立森鷗外記念館さんで開催されている「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」。共同通信さんの配信記事で、全国の地方紙に掲載されたようです。神奈川近代文学館さんで開催されていた「没後50年 川端康成展 虹をつむぐ人」展のレポートと2本立てでしたが、そちらは割愛します。
【逍遥の記(4)】肉筆の圧倒的な訴求力示す 災厄を力にした川端、来信から描く鷗外の輪郭
16歳と54歳の筆跡
文京区立森鷗外記念館の特別展「鷗外遺産」も内覧会で見た。54歳のときに新聞連載として発表した伝記「渋江抽斎」の直筆原稿や、夏目漱石らから鷗外に送られた書簡など、近年続々と見つかっている新資料多数が初めてまとまった形で公開されている。
「渋江抽斎」の原稿は16年の新聞連載(全119回)の49回と50回。49回はほとんど直しがなく、50回には目立った加筆や修正がある。記者会見した山崎一穎・跡見学園女子大名誉教授は「推敲の跡に注目してほしい。49回の方は新聞掲載後、事実の誤りが見つかり増補訂正されています」と解説してくれた。
東大医学部の学生だった16歳のとき、生理学の講義を受けてまとめた冊子「筋肉通論」も新資料である。端正で几帳面な文字が印象的だ。54歳の「渋江抽斎」と16歳の筆跡を見比べることができるのも楽しい。人間性の深化は文字にどう表れているか。 鷗外宛ての書簡は、島根県津和野町の森鷗外記念館に新たに寄託された約400通のうちの一部。夏目漱石、正岡子規、与謝野晶子、黒田清輝、高村光太郎、小山内薫…。差出人の名前を見ていくと、詩や短歌、俳句、美術や演劇などジャンルを超えて交流していたことが分かる。前期と後期合わせて15人からの18通を展示する。
永井荷風からの10年の手紙は、近く創刊する雑誌「三田文学」の準備の様子を報告している。荷風は鷗外を師と仰ぎ尊敬していた。
「雑誌体裁は凡(すべ)て短篇、(中略)寄稿者の署名は表題の下に印刷せず、文章の終りに廻(まわ)して見るつもり」「広告は凡て奥付ばかりに致したく」「兎(と)に角(かく)一号だけは、全く理想的に見本として発行致し度(た)き考(かんがえ)に御座候(ござそうろう)」とつづっている。
多くの人からの鷗外宛て書簡を読んでいると、彼がどんな人間に囲まれ、どんなふうに交流しながら生きていたのかが分かる。鷗外の外側から、鷗外の輪郭が浮かんでくるようだ。
【折々のことば・光太郎】
午后永瀬清子さんくる、来月インド行の由、
昭和30年(1955)2月25日の日記より 光太郎73歳
永瀬清子は現在の岡山県赤磐市出身の詩人。光太郎とは戦前から交流がありました。永瀬が光太郎の借りていた貸しアトリエを訪れたのは、前年に続き二度目。「インド行」は、ニューデリーで開催され、植民地主義、原水爆問題など、アジアに共通する問題について意見交換する趣旨だった「アジア諸国民会議」に「婦人団体代表」として永瀬が参加したことを指します。
この日、永瀬に贈ったはなむけの言葉が、永瀬の主宰していた地方詩誌『黄薔薇』のこの年4月号に掲載されました。曰く「裏の山へ植林にいくようなお気持ちでいつてゐらつしやい」。なかなかそうも行かないと思うのですが(笑)。