11月20日(日)、兵庫県神戸市の神戸聖愛教会さんで開催された「やすらぎコンサートin神戸 癒しの響き 鐘シンフォニー(和編鐘)への誘い」というコンサートに応援出演、光太郎智恵子について軽く話させていただきました。レポートいたします。
神戸へは、空路を使いました。自宅兼事務所は千葉県ですが、少し北上すると茨城県。その茨城県の南部に自衛隊さんの百里基地と滑走路等を共有している茨城空港があり、そちらから神戸便が出ています。空港までは車で45分ほど、フライト時間は1時間ちょっと。鉄道で神戸となると、まず自宅兼事務所から東京駅まで出るのが2時間近くかかりますので、空路の方が断然早いわけです。
駐車場はターミナルビルの目の前、しかも無料! ありがたし!!
自衛隊さんと共用なので、ターミナルビルの脇にはこんな展示も。先月、空港の下見に行きまして、その際に撮ったものですが、空自さんで使っていたF4ファントムです。これで神戸まで飛べれば更に早いのですが(笑)。
1ヶ月前に航空券の手配をした際、すでに「残席2」。「えっ?」と思ったら、それもそのはず、空港近隣にある公立中学校さん(それも2校)の修学旅行とかち合っていました。最近は公立中でも飛行機の旅なのですね。搭乗した機体がこちら。
あっという間に神戸空港に着きました。
そこから鉄道で市街へ。下記は車窓から撮った神戸港です。
光太郎、確認出来ている限り、生涯に2度、神戸港を訪れています。
最初は明治42年(1909)、3年半にわたる欧米留学を終え、ロンドンから日本郵船の阿波丸に乗って、神戸港に降り立った時です。
神戸港を「ただ乱雑な、けち臭い船着場」とディスっていますが、明治末はまだそんな感じだったのでしょう。下記はその頃と思われる当方手持ちの古絵葉書です。
2度目に光太郎が神戸を訪れたのは、昭和10年(1935)。神戸港に、すぐ下の弟・道利がフランスから送還されてくるのを迎えに、です。道利は父・光雲に、軍人志望、さらに結婚も反対されて自暴自棄となり、勝手にヨーロッパに渡って音信不通となっていましたが、体調を崩して、フランスの慈善病院に収容されていました。そのころと思われる古絵葉書。瀟洒なビル等も出来ていました。
コンサート会場に行く前に、寄り道。大倉山の神戸文化ホールさん。昭和48年(1973)の竣工だそうです。
こちらの側面外壁に、智恵子の紙絵をあしらった巨大壁画が。
右上は心を病んだ智恵子が、南品川ゼームス坂病院で作った紙絵の一つで、これが原画です。紫陽花は神戸市の花だそうで。
ホール建設の際の神戸市長が、光太郎と交流のあった彫刻家・柳原義達と同級生。市長から相談を受けた柳原が、それなら、と、この紙絵を原画に使うことを提案したそうです。そこで当時の髙村家当主だった光太郎令甥にして写真家の故・髙村規氏に相談が持ちかけられ、規氏も写真技術を駆使して協力。仲介したのはやはり光太郎と交流のあった美術史家・土方定一でした。さらに土方の推薦した画家・田中岑(たかし)が色彩監督となって、規氏の写真から愛知県の瀬戸で色彩タイルを1,000枚以上焼成し、貼り付けたとのこと。その辺りの経緯は平成21年(2009)の『日本古書通信』に載った規氏の回想「髙村規の語る戦後の写真」に述べられています。阪神淡路大震災でも、この壁画には奇跡的に損傷がなかったことなども。
壁画の真下の植え込みには、智恵子と田中の名を刻んだプレートと、さらに光太郎詩碑。
当会の祖にして光太郎智恵子と親しかった詩人・草野心平の筆になる『智恵子抄』中の「晩餐」(大正3年=1914)の一節「われらのすべてに 溢れこぼるゝ ものあれ われらつねに みちよ」が刻まれています。心平を担ぎ出したのも、土方なのではないかと思われます。土方は心平主宰の『歴程』に依った詩人でもありましたので。或いは規氏→心平というホットラインも考えられます。
さて、その後、新神戸駅近くの神戸聖愛教会さんへ。さすが神戸、巨大な教会で驚きました。さらに驚いたことに、こちらの牧師さん、光太郎第二の故郷・花巻のご出身だそうで、ひとしきり花巻談義に花が咲きました。
こちらの2階にある礼拝堂がコンサート会場です。
有機音(ゆきね)さんの和編鐘、地元の朗読家・大山りえさんの朗読がメインでした。
リハーサル風景。
有機音さん、様々な事象からインスパイアを受けて曲作りをなさる方で、津田梅子オマージュの曲も作られ、今回のプログラムにも。そこで津田梅子を主人公とした小説『ハドソン河の約束―米国女子留学生による近代女子教育への挑戦―』の御著者、こだまひろこ氏のトークもあり、地元のカリヨン演奏家・則定まりさんとそのお仲間の方々によるリコーダー演奏もありました。カリヨン演奏もあるのかな、と思っていたのですがそれはありませんでした。
そしてプログラムの最後が、有機音さんの演奏と大山さんの朗読による「組曲 愛はすべてをつつむ」からの抜粋。その前座として、当方のトーク。上の方に書きました光太郎智恵子と神戸との関わりを中心に語りました。
ステージというか、祭壇というか、とにかく正面脇の壁面に大型モニター画面があって、HDMIケーブルで繋げるというので、パソコンを持参、画像を映させていただきました。文化ホールの壁画はその日撮った画像をすぐ取り込みました(笑)。
その後の演奏と朗読の際にも、光太郎智恵子の写真を映しっぱなしにさせていただきました。
そんなこんなでコンサート終了。
教会独特の音響効果、さらに和編鐘という楽器がものすごく残響時間が長く、実に不思議な空間が現出されたように思われました。
ところで「宣伝せよ」という有機音さんの厳命があったので(笑)、事前にお近くに住まわれている知り合いに片っ端から案内を送ったところ、連翹忌にご参加下さっている大阪市ご在住の女性がお友達とご一緒に聞きに来て下さいましたし、20数年前、当方がまだ勤め人だった頃の親しかった同僚(神戸市ご在住)も駆けつけて下さいました。20数年ぶりに会え、感激でした。
また、やはり神戸ご在住で、令和元年(2019)、福島県いわき市立草野心平記念文学館さんで開催された 「居酒屋「火の車」一日開店」の際にご一緒させていただいた料理研究家の中野由貴さんは、他のイベントの先約があって無理、と御返事を頂いていたのですが、なんとそちらに行かれる前、こちらの開演前に会場にいらして下さり、お土産まで頂戴してしまいました。ありがたし。
そんなこんなで、人と人とのご縁、的なものの大切さをしみじみ感じる神戸行でした。
以上、神戸レポートを終わります。
【折々のことば・光太郎】
食事後理髪にゆく、 帰宅後太田村の昌歓寺住職神武男氏くる、子息同伴、
宿痾の肺結核も小康状態を見せ、久しぶりに床屋へ。ただし4月末にはまた重症化し、入院することになってしまいます。
昭和20年(1945)から同27年(1952)まで7年間の蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の昌歓寺さんから、親しかった住職・神武男が訪問。久闊を叙しました。
神戸へは、空路を使いました。自宅兼事務所は千葉県ですが、少し北上すると茨城県。その茨城県の南部に自衛隊さんの百里基地と滑走路等を共有している茨城空港があり、そちらから神戸便が出ています。空港までは車で45分ほど、フライト時間は1時間ちょっと。鉄道で神戸となると、まず自宅兼事務所から東京駅まで出るのが2時間近くかかりますので、空路の方が断然早いわけです。
駐車場はターミナルビルの目の前、しかも無料! ありがたし!!
自衛隊さんと共用なので、ターミナルビルの脇にはこんな展示も。先月、空港の下見に行きまして、その際に撮ったものですが、空自さんで使っていたF4ファントムです。これで神戸まで飛べれば更に早いのですが(笑)。
1ヶ月前に航空券の手配をした際、すでに「残席2」。「えっ?」と思ったら、それもそのはず、空港近隣にある公立中学校さん(それも2校)の修学旅行とかち合っていました。最近は公立中でも飛行機の旅なのですね。搭乗した機体がこちら。
あっという間に神戸空港に着きました。
そこから鉄道で市街へ。下記は車窓から撮った神戸港です。
光太郎、確認出来ている限り、生涯に2度、神戸港を訪れています。
最初は明治42年(1909)、3年半にわたる欧米留学を終え、ロンドンから日本郵船の阿波丸に乗って、神戸港に降り立った時です。
一九〇九年(明治四十二年)七月に阿波丸は神戸についたが、船が波止場に横づけになつたか、はしけで上陸したか、忘れてしまつた。父が一人で迎へに来てゐた。私は船中無一文で、洗濯代も払へずにゐたのを、父に払つてもらつたことをおぼえてゐる。紐育、サザンプトン、テームズ河口等をはじめ、コロンボ、香港等の港を見てきた眼には、神戸港はただ乱雑な、けち臭い船着場にしか見えなかつた。船から上つて薄ぎたない船宿の一室に案内され、一休みしてその晩の夜汽車ですぐ東京に向つたやうに思ふ。(「父との関係」 昭和29年=1954)
神戸港を「ただ乱雑な、けち臭い船着場」とディスっていますが、明治末はまだそんな感じだったのでしょう。下記はその頃と思われる当方手持ちの古絵葉書です。
2度目に光太郎が神戸を訪れたのは、昭和10年(1935)。神戸港に、すぐ下の弟・道利がフランスから送還されてくるのを迎えに、です。道利は父・光雲に、軍人志望、さらに結婚も反対されて自暴自棄となり、勝手にヨーロッパに渡って音信不通となっていましたが、体調を崩して、フランスの慈善病院に収容されていました。そのころと思われる古絵葉書。瀟洒なビル等も出来ていました。
コンサート会場に行く前に、寄り道。大倉山の神戸文化ホールさん。昭和48年(1973)の竣工だそうです。
こちらの側面外壁に、智恵子の紙絵をあしらった巨大壁画が。
右上は心を病んだ智恵子が、南品川ゼームス坂病院で作った紙絵の一つで、これが原画です。紫陽花は神戸市の花だそうで。
ホール建設の際の神戸市長が、光太郎と交流のあった彫刻家・柳原義達と同級生。市長から相談を受けた柳原が、それなら、と、この紙絵を原画に使うことを提案したそうです。そこで当時の髙村家当主だった光太郎令甥にして写真家の故・髙村規氏に相談が持ちかけられ、規氏も写真技術を駆使して協力。仲介したのはやはり光太郎と交流のあった美術史家・土方定一でした。さらに土方の推薦した画家・田中岑(たかし)が色彩監督となって、規氏の写真から愛知県の瀬戸で色彩タイルを1,000枚以上焼成し、貼り付けたとのこと。その辺りの経緯は平成21年(2009)の『日本古書通信』に載った規氏の回想「髙村規の語る戦後の写真」に述べられています。阪神淡路大震災でも、この壁画には奇跡的に損傷がなかったことなども。
壁画の真下の植え込みには、智恵子と田中の名を刻んだプレートと、さらに光太郎詩碑。
当会の祖にして光太郎智恵子と親しかった詩人・草野心平の筆になる『智恵子抄』中の「晩餐」(大正3年=1914)の一節「われらのすべてに 溢れこぼるゝ ものあれ われらつねに みちよ」が刻まれています。心平を担ぎ出したのも、土方なのではないかと思われます。土方は心平主宰の『歴程』に依った詩人でもありましたので。或いは規氏→心平というホットラインも考えられます。
さて、その後、新神戸駅近くの神戸聖愛教会さんへ。さすが神戸、巨大な教会で驚きました。さらに驚いたことに、こちらの牧師さん、光太郎第二の故郷・花巻のご出身だそうで、ひとしきり花巻談義に花が咲きました。
こちらの2階にある礼拝堂がコンサート会場です。
有機音(ゆきね)さんの和編鐘、地元の朗読家・大山りえさんの朗読がメインでした。
リハーサル風景。
有機音さん、様々な事象からインスパイアを受けて曲作りをなさる方で、津田梅子オマージュの曲も作られ、今回のプログラムにも。そこで津田梅子を主人公とした小説『ハドソン河の約束―米国女子留学生による近代女子教育への挑戦―』の御著者、こだまひろこ氏のトークもあり、地元のカリヨン演奏家・則定まりさんとそのお仲間の方々によるリコーダー演奏もありました。カリヨン演奏もあるのかな、と思っていたのですがそれはありませんでした。
そしてプログラムの最後が、有機音さんの演奏と大山さんの朗読による「組曲 愛はすべてをつつむ」からの抜粋。その前座として、当方のトーク。上の方に書きました光太郎智恵子と神戸との関わりを中心に語りました。
ステージというか、祭壇というか、とにかく正面脇の壁面に大型モニター画面があって、HDMIケーブルで繋げるというので、パソコンを持参、画像を映させていただきました。文化ホールの壁画はその日撮った画像をすぐ取り込みました(笑)。
その後の演奏と朗読の際にも、光太郎智恵子の写真を映しっぱなしにさせていただきました。
そんなこんなでコンサート終了。
教会独特の音響効果、さらに和編鐘という楽器がものすごく残響時間が長く、実に不思議な空間が現出されたように思われました。
ところで「宣伝せよ」という有機音さんの厳命があったので(笑)、事前にお近くに住まわれている知り合いに片っ端から案内を送ったところ、連翹忌にご参加下さっている大阪市ご在住の女性がお友達とご一緒に聞きに来て下さいましたし、20数年前、当方がまだ勤め人だった頃の親しかった同僚(神戸市ご在住)も駆けつけて下さいました。20数年ぶりに会え、感激でした。
また、やはり神戸ご在住で、令和元年(2019)、福島県いわき市立草野心平記念文学館さんで開催された 「居酒屋「火の車」一日開店」の際にご一緒させていただいた料理研究家の中野由貴さんは、他のイベントの先約があって無理、と御返事を頂いていたのですが、なんとそちらに行かれる前、こちらの開演前に会場にいらして下さり、お土産まで頂戴してしまいました。ありがたし。
そんなこんなで、人と人とのご縁、的なものの大切さをしみじみ感じる神戸行でした。
以上、神戸レポートを終わります。
【折々のことば・光太郎】
食事後理髪にゆく、 帰宅後太田村の昌歓寺住職神武男氏くる、子息同伴、
昭和30年(1955)2月12日の日記より 光太郎73歳
宿痾の肺結核も小康状態を見せ、久しぶりに床屋へ。ただし4月末にはまた重症化し、入院することになってしまいます。
昭和20年(1945)から同27年(1952)まで7年間の蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の昌歓寺さんから、親しかった住職・神武男が訪問。久闊を叙しました。