紹介すべき事項が多いので、4件まとめます。

まずは『岩手日日新聞』さん。花巻市東和町で開催中の「器とたのしむ光太郎ランチ」展の件。

光太郎ランチの原画紹介 東和・土沢カフェくるみ【花巻】

  彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)が食べたレシピを色鉛筆画で紹介する絵本「器と楽しむ光太郎ランチ」の原画展は、花巻市東和町の土沢カフェくるみで開かれている。同市星ヶ丘の西堀みちよさん(66)が制作した色彩豊かな原画が並び、光太郎の食卓に光を当てている。21日まで。
 西堀さんはmichinoのペンネームで活動。これまで一般に作品を公開したことがなかったが、絵本を発行する花巻市のやつかのもりから依頼を受けて、初めて絵本の原画を制作した。
 展示されているのは原画と花をモデルにした絵画など19点。原画は昨年6月から制作しており、1月から12月までのその月に光太郎が食べた食事を描いている。西堀さんによると、道の駅西南で販売されている手作り弁当「光太郎ランチ」を食器に移し替え、絵のモデルにしたという。
 グリンピースご飯、ヨモギの天ぷら、そば粉のパンケーキなど緻密に再現され、光太郎の日記などから抜粋された食に関する一節も紹介されている。
 西堀さんは「彫刻が好きで高村光太郎のことは知っていたが、こんなレシピが残っているなんて担当するまで知らなかった。(原画は)料理が映えるように、自宅にあるさまざまな食器を利用した。多くの人に見ていただきたい」と笑顔を見せる。
 鑑賞無料。時間は午前10時から午後5時まで。問い合わせは土沢カフェくるみ=080(3334)3003=へ。
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続いて、八戸に本社を置く『デーリー東北』さん。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」もコースに入り、十和田湖周辺で今年から始まったウォーキングイベント「ONSEN・ガストロノミーウォーキング in カミのすむ山 十和田湖」について。ただし、「乙女の像」には触れられていませんでしたが……。

歩いて食べて十和田湖畔巡り ONSEN・ガストロノミーウォーキング

 温泉地を舞台に地域の食や自然、歴史と文化が体感できるコースを歩くイベント「ONSEN・ガストロノミーウォーキング in カミのすむ山 十和田湖」が12日、十和田湖畔周辺で開催された。青森県内外から約60人が参加し、各所に設定されたポイントに立ち寄り、湖畔の景観や食事を楽しんだ。
 ONSEN・ガストロノミーウォーキングは滞在型、体験型観光の推進や温泉地の活性化に向け、全国各地で行われている。十和田市版DMO(観光地域づくり推進法人)十和田奥入瀬観光機構が主催し、一般社団法人ONSEN・ガストロノミーツーリズム推進機構が協力した。
 十和田神社、石川啄木の碑などの観光スポットをつなぐ約6キロのコースと、地酒や地元産食材の料理を提供するポイントを設定。参加者は自分たちのペースで巡り、十和田バラ焼き、そばかっけを味わったり、同市無形文化財の民俗芸能「晴山獅子舞」を観賞したり、地域の魅力に触れた。ゴール後は食材や菓子、指定の4施設で使える入浴券を受け取った。
 黒石市から訪れた歯科助手高田絵梨さん(43)は姉妹2人で参加。「人混みもなくゆっくり楽しめた。疲れないコース設定で、もう少し距離があっても良かった」と語った。
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続いて『毎日新聞』さん。文京区立森鷗外記念館さんで開催中の特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」がらみ。

森鷗外記念館 直筆原稿や書簡、新発見資料を公開

 森鷗外の没後100年を記念し、東京都の文京区立森鷗外記念館で特別展「鷗外遺産」が開かれている。伝記「渋江抽斎」の直筆原稿や、夏目漱石らからの書簡など、近年見つかった資料が初めて一般公開されている。来年1月29日まで。
 「渋江抽斎」の原稿は1916年の新聞連載(全119回)の49回と50回。49回はほぼ直しがなく、50回は加筆や修正がある。「推敲(すいこう)の跡に注目してほしい」と山崎一穎・跡見学園女子大名誉教授。
 16歳の時、東大医学部で受けた講義をまとめた冊子「筋肉通論」も新資料として展示される。54歳の時の「渋江―」の筆跡と見比べたい。
   鷗外宛ての書簡は、島根県津和野町の森鷗外記念館に新たに寄託された約400通の一部。漱石、正岡子規、与謝野晶子、黒田清輝、小山内薫らからで、美術、演劇などジャンルを超えて交流していたことが分かる。前期と後期で15人からの18通を展示する。
 詩人で彫刻家の高村光太郎の17年の手紙には「御引用になつた様なムチヤクチヤな事を考へた事もありません」とある。光太郎が「誰にでも軍服を着せてサアベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」と述べたと鷗外が思い込んだ。手紙はその誤解を解こうと書かれた。
 作家の永井荷風からの10年の手紙は、近く創刊する「三田文学」の構想を鷗外に報告している。 監修を務めた須田喜代次・大妻女子大名誉教授は「鷗外がどんな文化的風土で生きていたかが分かる。直筆の力を感じてほしい」と語る。
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最後に再び『朝日新聞』さん。作家の澤田瞳子さんによる『平櫛田中回顧談』の書評です。

『平櫛田中回顧談』 平櫛田中〈著〉 本間正義〈聞き手〉 小平市平櫛田中彫刻美術館〈監修〉 近代美術界の逸話惜しげもなく

005 平櫛田中(ひらくしでんちゅう)と聞いて、「あの彫刻家の」とすぐ思い至る方は、残念ながらそう多くはあるまい。ただ舞台をよくご覧になる方であれば、東京の国立劇場ロビーに飾られている田中の代表作「鏡獅子」をご覧になった折がおありかもしれない。
  本書は1965(昭和40)年、当時93歳の田中の口述を、美術評論家・本間正義が筆録したもの。ゆえあって未刊行とされていた原稿が、田中の生誕150年を機に約半世紀を経て出版された奇縁の回顧談である。
 田中は大阪での修業を経て1897(明治30)年に上京、高村光雲の門下となった。光雲同様に師と仰いだ岡倉天心や深い縁を結んだ禅僧・西山禾山(かさん)、はたまた「鏡獅子」のモデルとなった六代目尾上菊五郎などの思い出は活気に満ち、近代美術界の激動を眩(まばゆ)いほどに蘇(よみがえ)らせる。興味深いのは、当時の美術界の内幕までが垣間見えることで、たとえばある時、兄弟子・米原雲海の作品が宮内省に買い上げられたはいいが、実は子どもが犬にまたがった様を彫り出したその作は、鼻を削(そ)ぎ過ぎたために後から部材を接いでいた。「湿気がある頃になると取れるかもしれないぞ」という米原の困惑は、当人には申し訳ないがつい口元が緩む。
 田中は100歳を超えてもなお、いつでもすぐ作品に取りかかれるよう、手元に膨大な木材を蓄えていた。そんな彼ならではの材木や道具、伝統技法に関する逸話も読みどころの一つ。中に節がある木材の見分け方、樟(くす)や桐(きり)、榧(かや)といった木材ごとの長所と短所など、随所にちりばめられた実作者ならではの観察にはつい驚きの声が漏れる。
 岡倉天心にまつわる複数の艶事(つやごと)、「悲母観音」で知られる日本画家・狩野芳崖の死を巡る経緯など、なかなか他では読めぬエピソードが惜しげもなく披瀝(ひれき)される一方で、個々の田中作品の制作譚(たん)が豊富な図版とともに紹介される。
 日本美術界に新たな光を当てる貴重な一冊である。
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ひらくし・でんちゅう 1872~1979。彫刻家。東京芸術大教授を務める。1962年、文化勲章を受章。

以上、4件。ブログのネタがない時であれば、4日に分けてご紹介するところですが、まだまだ紹介すべき事項がたくさんありまして(10日先まで書く内容が決まっています(笑))、嬉しい悲鳴です。

【折々のことば・光太郎】

午后、東方亭の幸子さんくる、掃除のため毎週金曜日午后一時頃来て二時ばかり働いてもらふ相談、アルバイト1日400円、(お年玉1,000)


昭和30年(1955)1月4日の日記より 光太郎73歳

東方亭」は荒川区三河島にあったトンカツ屋。光太郎戦前からの行きつけの店でした。そこの長女・明子は医師となり、光太郎詩「女医になつた少女」(昭和24年=1949)を書いたりしました。

幸子さん」は次女。肺結核のため力仕事がほぼ不能となったため、起居していた貸しアトリエの清掃等を頼むことにしました。

アルバイト」という語と概念、すでにこの頃にはあったのですね。