光太郎が絡んでいるとは気づかず、紹介が遅れました。 

コレクション展「文学とビール―鷗外と味わう麦酒(ビール)の話」

期 日 : 2019年7月5日(金)~10月6日(日)
時 間 : 午前10時~午後6時
場 所 : 文京区立森鷗外記念館  東京都文京区千駄木1-23-4
料 金 : 一般 300円  20名以上の団体は240円  中学生以下無料
休 館 : 7月23日(火)、8月27日(火)、9月24日(火)

「とりあえずビール」と、現在では手軽に飲むことができるビール。江戸時代末に日本にもたらされたビールは、明治に入って本格的に醸造され始め、広く飲まれるようになったのは40年代以降のことでした。
鷗外は、日本ではまだビールが貴重だった明治17年から21年まで、陸軍軍医としてドイツに留学し、本場のビールを楽しみました。留学中の日記『独逸日記』では、鷗外が醸造所やオクトーバーフェスト(ビール祭り)を訪れたり、自ら被験者となって「ビールの利尿作用」について研究していたことが分かります。
こうした鷗外のビール体験は『うたかたの記』(明治23年)などの作品に生かされました。また、同時代の文学者たちもビールを作中に描きました。夏目漱石『吾輩は猫である』(明治38~39年)、太宰治『酒の追憶』(昭和23年)に見られるおもてなしや晩酌としてのビール、高村光太郎『カフエ、ライオンにて』(大正2年)に見られる酒場の様子など、文学作品には明治・大正から現代に通じる様々なビールのある風景が登場します。
本展では、鷗外のビール体験に触れると共に、文学作品に登場するビールのある風景を、所蔵資料から紹介します。この夏、ビールを切り口に文学作品を味わってみませんか。

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光太郎に関しては、小曲詩「カフエライオンにて」6篇の載った雑誌『趣味』第7年第2号(大正2年=1913)が展示されます。復刻版だそうですが。「カフエライオンにて」は、6篇中の4篇が「カフエにて」と改題され、第一詩集『道程』に収められました。

カフェ・ライオンは、明治44年(1911)、銀座に創業したカフェで、光太郎も足繁く通ったようです。美人女給が和服にエプロンという揃いの衣裳で給仕するのが売りでした。また、ビールが一定量売れると、店内のライオン像が吠える仕組みになっていたそうです。経営は変わりましたが現在もビアホール銀座ライオンとして健在です。

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左は雑誌『趣味』第7年第2号に送られたものと見られる詩稿(天理大学さん所蔵)、右は同誌に掲載された、光太郎によるカット。カフェライオンの絵です。

ところで「カフエライオンにて」といえば、過日ご紹介した『岩手日報』さんの一面コラム「風土計」でも引用して下さいました。その際には、当方、引用部分が「カフエライオンにて」の一節と気づきませんでしたが、あとで気づきました。全文は以下の通り。天理大学さん所蔵の詩稿にも入っています。

 何もかもうつくしい
 このビイルの泡の奮激も
 又其を飲むおれのこころの悲しさも
 かうやつて
 じつと力をひそめてゐると
 何処からかうれしい声が湧いて来る
 酔つぱらひの喧嘩さへ
 リズムをうつてひびくんだ


また、やはり『岩手日報』さんの「風土計」で引用された随筆「ビールの味」(昭和11年=1936)の載った雑誌『ホーム・ライフ』第2巻第8号も「参考図版」扱いで展示品目録に載っています。パネル展示でしょうか。

それから、展示品目録に光太郎の作品が載った雑誌がまだありました。『ARS』第1巻第3号(大正4年=1915)、それから『スバル』9号(明治42年=1909)。『ARS』には光太郎による翻訳「ドユ モーパスサンの描いたロダン」、『スバル』にはやはり翻訳で「HENRI MATISSEの画論(一)」、それから裏表紙に戯画「屋根の草」が収められています。ただ、ビールとは無関係なので、他の誰かの作品でビールがらみの何かが載っているのでしょう。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

美ならざるなし   短句揮毫  戦前?

右の画像は戦後のものですが、おそらく戦前からこの句を好んだ光太郎、頼まれて色紙などに書く揮毫にしばしばこの句を選びました。
 
現在も複数の揮毫が遺されています。
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