昨日の『朝日新聞』さんの読書面に、先月刊行された中村稔氏著 『高村光太郎の戦後』の書評が大きく出ました。
『高村光太郎の戦後』 中村稔〈著〉 ■自らの「愚」究明する表現人の責任
19世紀ドイツの法学者ギールケは、普仏戦争開戦直前の首都ベルリンで、「共同体の精神が、原始の力で、ほとんど官能的な形象を伴ってわれわれの前に発現し、……我々の個としての存在を感じさせなくなる」経験をしたという。同種の体験が日本では、共同体精神の特権的な表現人であった天皇を、表象として用いて語られる。
たとえば、真珠湾攻撃の一報をきいた体験を、詩人・高村光太郎は次のように回想している。「この容易ならぬ瞬間に/……昨日は遠い昔となり、/遠い昔が今となつた。/天皇あやふし。/ただこの一語が/私の一切を決定した。/……私の耳は祖先の声でみたされ、/陛下が、陛下がと/あへぐ意識は眩(めくるめ)いた。」(「暗愚小伝」から)
以降の高村は、共同体精神の卓越した表現人として、戦争を鼓舞する詩を書いた。少なからぬ若者がそれに励まされて死地に赴いた。そうした「世代」の文芸的精神の中に、いいだもも、村松剛の如(ごと)き左右両極の批評家、最高裁判事を務めた大野正男、そして本書の著者・中村稔もいたのである。
戦後派としての彼らがそれぞれに格闘した「日本」という問題は、しかし、時局への加担者として「二律背反」に苦しんだ高村によっても、真摯(しんし)な反省の対象となっていた。自らを「愚劣の
典型」とみて、「この特殊国の特殊な雰囲気の中にあつて、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られてゐたか」を究明した、高村の「致命点摘発」の作業は、「暗愚小伝」を含む詩集『典型』に結実した。
以降の高村は、共同体精神の卓越した表現人として、戦争を鼓舞する詩を書いた。少なからぬ若者がそれに励まされて死地に赴いた。そうした「世代」の文芸的精神の中に、いいだもも、村松剛の如(ごと)き左右両極の批評家、最高裁判事を務めた大野正男、そして本書の著者・中村稔もいたのである。
戦後派としての彼らがそれぞれに格闘した「日本」という問題は、しかし、時局への加担者として「二律背反」に苦しんだ高村によっても、真摯(しんし)な反省の対象となっていた。自らを「愚劣の
典型」とみて、「この特殊国の特殊な雰囲気の中にあつて、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られてゐたか」を究明した、高村の「致命点摘発」の作業は、「暗愚小伝」を含む詩集『典型』に結実した。
中村稔は、詩人としても法律家としても、そうした高村に一貫して拘(こだわ)ってきた。その文学人生の最終盤に、高村の「戦後」といま一度腰を据えて取り組んだのが本書である。この重みを踏まえなければ、岩手・花巻郊外の言葉も通じない山中で、高村が独居生活した戦後の7年間を、何故「冗漫に耐えて」執拗(しつよう)に追体験しようとしているのかは、理解できない。
しかも感動的なのは、そうした地道な作業の結果、齢(よわい)92歳の著者が、近著『高村光太郎論』でも披瀝(ひれき)された若き日からの持論を「あさはかな批評」と断じて、自ら改めるに至ったという事実である。
かねて評価した歌人斎藤茂吉の中に、中村は、「社会的存在としての人間の生」の視点の欠落を発見し、そうした他者を想定せずには成立しない「責任」の観念の蒸発が、戦争を賛美した過去に向き合う「知識人の責務」の欠如をもたらしていることに失望する。そして、これとの対比から、表現人としての戦争責任から逃げず、「民衆」に分け入ることで「自主自立」の精神を再建した実例を、かつて弁明のみ目についた『典型』に、慥(たし)かに見出(みいだ)すに至ったのである。
かねて評価した歌人斎藤茂吉の中に、中村は、「社会的存在としての人間の生」の視点の欠落を発見し、そうした他者を想定せずには成立しない「責任」の観念の蒸発が、戦争を賛美した過去に向き合う「知識人の責務」の欠如をもたらしていることに失望する。そして、これとの対比から、表現人としての戦争責任から逃げず、「民衆」に分け入ることで「自主自立」の精神を再建した実例を、かつて弁明のみ目についた『典型』に、慥(たし)かに見出(みいだ)すに至ったのである。
評・石川健治(東京大学教授・憲法学)
評を書かれた東大の石川健治教授の光太郎観がかなり反映された評にも読めますが、「自らの「愚」究明する表現人の責任」というタイトルが、我が意を得たりという感じです。途中にいろいろ名が挙げられている人々の中に、吉本隆明が入っていれば、さらによかったのですが。
多くの前途有為な若者を死地に追い立てた戦時中の詩文に対し、光太郎は「乞はれるままに本を編んだり、変な方角の詩を書いたり、」(連作詩「暗愚小伝」中の「おそろしい空虚」より)としましたが、「誤解を与えたとすれば撤回します」的な発言はしていません。そしてしっかりその責任を取るため、自らを流刑に処する「自己流謫(るたく)」の7年間を、花巻郊外旧太田村のあばら屋に送りました(この「自己流謫」に就いての中村氏の解釈はかなり手厳しいのですが)。
『高村光太郎の戦後』、ぜひお買い求め下さい。
【折々のことば・光太郎】
明治十六年三月、東京下谷に生る。東京美術学校彫刻科卒業。与謝野寛先生の新詩社に入りて短歌を学ぶ。一九〇六年より一九〇九年夏まで、紐育、倫敦、巴里等に滞在す。真に詩を書く心を得しは一九一〇年(明治四十三年)以後の事なり。一九一四年詩集「道程」出版。以後詩集無し。以上。
雑纂「高村光太郎自伝」全文 昭和4年(1929) 光太郎47歳
この年新潮社から刊行された『現代詩人全集第九巻 高村光太郎 室生犀星 萩原朔太郎集』に寄せたものです。『智恵子抄』刊行前ですので、『道程』以後、詩集無しということになっています。
簡にして要、というか、ある意味そっけないというか……。同じ巻に収められた犀星、朔太郎のそれの約半分です。