昨日は埼玉県に行っておりました。
県中央部の東松山市、元教育長の故・田口弘氏が光太郎と交流がおありだったため、何度かお邪魔しているのですが、同市の主にシニアの方々向けの社会教育施設「きらめき市民大学」さんで講座の講師を仰せつかり、お話しして参りました。
同市で講師を務めさせていただくのは3度目となりました。最初は昨年、同市の市立図書館さんに田口氏から寄贈された光太郎関連の資料を展示する「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」がオープンした記念講演、「田口弘と高村光太郎―交差した二つの詩魂―」と題して。二度目は今年の1月、市立図書館さんの主催講座で「高田博厚、田口弘、高村光太郎 東松山に輝いたオリオンの三つ星」という題で、光太郎・田口氏とそれぞれ交流の深かった彫刻家の高田博厚をからめ、お話しさせていただきました。
すると、同市には主にシニアの方々向けの社会教育施設「きらめき市民大学」さんという施設があって、多方面から講師を招いてさまざまな講義を行っており、そちらでも話をしてくれ、ということになった次第です。
そこで、昨日は「高村光太郎と東松山」と題し、講義をさせていただきました。
90分与えられまして、前半は光太郎の生涯のアウトライン、後半は田口氏、高田博厚との関わりから、市内に残る光太郎関連の資料や石碑、彫刻作品などについて。
つつがなく終えました。
驚いたことに、事務局の方が、田口氏の奔走で光太郎の筆跡を使って建てられた「正直親切」碑の設置場所である市立新宿小学校さんで建立当時に児童会長をなさっていて、除幕式では児童代表で挨拶をなさったそうでした。
それにしてもきらめき市民大学さん、そういう名称で公民館的な建物を使って実施しているのかと思いきや、そうではなく、きらめき市民大学という施設そのものが存在しており、驚きました。ちゃんとカーナビにも表示されました。
元は埼玉県立の青年の家だった建物だそうですが。
終了後、隣町の比企郡鳩山町に足を伸ばしました。
昨日は、光太郎が総合的な芸術家だったという実例を示すために、どうせ自家用車ですし、いろいろと車に積み込んで持参し、休憩時間や終了後に受講生の方々に見ていただきました。ブロンズの彫刻、短歌をしたためた自筆の短冊、『道程』や『智恵子抄』の初版、田口氏の御著書などなど。それから、自筆のハガキも一葉。
10年ほど前に入手したもので、昭和19年(1944)4月13日のものです。送った相手は当会の祖・草野心平主宰の『歴程』同人だった内山義郎。戦後の昭和27年(1952)に角川書店から出た『現代詩集 歴程篇』では、巻末の同人紹介欄に光太郎と並んで名が載っています。
それによると東京の人だそうですが、住所が「比企郡今宿村」となっています。現在の鳩山町です。観音院という寺院であること、戦時中であることを考えると、どうも疎開なのかな、という気はしていました。
で、調べてみましたところ、「大豆戸(まめど)」という字名は現在も使われており、しかも「観音院」という寺院も健在のようで、行ってみた次第です。
こちらが観音院。
残念ながらもはや廃寺となっているようでした。それにしても、75年前に光太郎からのハガキがここに届いたのかと思うと、感慨深いものはありましたが。
その後、千葉の自宅兼事務所に戻りました。
さて、「営業」になりますが(笑)、上記のような市民講座等の講師、きちんとした団体さんの主催で(「大東亜八紘一宇の会」とかいうのは勘弁して下さい(笑))、日程さえ合えば、お引き受けいたしますので、お声がけいただければと存じます。
【折々のことば・光太郎】
やはり書は人であり、いかに造型がよくてもわるくても、結局それを書いた人物をよくあらわしています。それがおもしろいです。
アンケート「墨人に」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳
上記のハガキなども、何気に書かれた筆跡ですが、きちっとした人格が表れているように感じます。