昨日は都内に出、神保町で開催の「明治古典会七夕古書大入札会2019」、一般下見展観を拝見して参りました。年に一度の古書業界最大の市(いち)で、出品物を手に取って見ることができます。

会場は東京古書会館さん。開場の午前10時少し前に到着しましたところ、入場待ちの方々で、既に長蛇の列。関心の高さが伺えます。

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入り口で手荷物を預け、まずは4F、文学関連のコーナーへ。出品目録に出ていた光太郎関連の2点を手に取って拝見しました。

まず出版社文一路社の社主、森下文一郎に宛てた昭和12年(1937)の書簡1通。『高村光太郎全集』には漏れていたものです。

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画像は昨年の『日本古書通信』さんにも掲載され、内容も把握していましたが、やはり光太郎が手づから書いた封筒と便箋を手にし、その息吹が感じられました。想像していたより便箋が薄く小さいのが意外でした。


もう1点、詩稿。こちらはガラスケースに収められていましたが、係員の方に開けていただき、チェック。

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昭和19年(1944)に刊行された『歴程詩集2604』のための浄書稿で、「突端に立つ」(昭和17年=1942)、「或る講演会で読んだ言葉」(同)、「朋あり遠方に之く」(昭和16年=1941)、「三十年」(昭和17年=1942)の四篇でした。他に「戦歿報道戦士にささぐ」(昭和17年=1942)、「われらの死生」(昭和18年=1943)もあったはずですが、無くなっています。

こちらも光太郎一流の味のある文字でした。


続いて2Fへ。文学関係でなく、「近代文献資料」というコーナーに、光太郎の筆跡を含む出品物。こちら、目録に載っていましたが、文学、美術関連の項でなかったので見落としていました。

戦時中の日章旗です。

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光太郎の筆跡は左上、短歌一首が揮毫されています。

高きものいやしきをうつあめつちの神いくさなり勝たざらめやも」と読みます。昭和19年(1944)の雑誌『富士』に他の揮毫の画像が載ったのが、確認できている初出です。もしかすると作歌時期、そしてこの日章旗自体、時期的にもう少し遡るかもしれません。

この手の日章旗のお約束で、寄せ書きとなっています。光太郎以外には、横山大観、若槻礼次郎、そして野口英世と交流の深かった政治家・石塚三郎の筆跡。

石塚は新潟県北蒲原郡安田村(現阿賀野市)の出身で、同村の素封家・旗野家(政治学者・吉田東伍の生家)とも縁が深い人物でした。旗野家といえば、光太郎智恵子ともいろいろ関連がありました。

まず、吉田東伍の姪に当たる旗野八重が、日本女子大学校で同じ年に入学した智恵子と親しかったそうですが、卒業直後の明治40年(1907)に病没しています。その妹・スミも日本女子大学校に進み、智恵子から絵の手ほどきを受けました。智恵子は卒業後、画家・松井昇の助手として母校に勤務していた時期があります。大正2年(1913)には、智恵子が新潟の旗野家に滞在、共にスキーに興じたりもしたそうです。

その旗野家に逗留していた智恵子に宛てて送った結婚前の光太郎からの封書が奇跡的に現存しており(当会顧問・北川太一先生がお持ちです)、時折取り上げられます。

ちなみに今月25日、NHK BSプレミアムさんで放映予定の「偉人たちの健康診断」が「東京に空が無い “智恵子抄”心と体のSOS」ということで、この手紙も取り上げられるかも知れません。5月に番組制作会社の方から連絡があり、その際は北川先生ご所蔵の智恵子から母・セン宛の書簡を取り上げたいというお話でした。のちほどまたご紹介いたします。

スミはのちに立川の農事試験場長を務めた佐藤信哉と結婚、光太郎夫妻に農作物などを贈ります。大正14年(1925)の光太郎詩「葱」は、佐藤夫妻から贈られたネギを題材にした詩です。

その旗野家と縁が深かった光太郎と石塚が同じ日章旗に揮毫しているわけで、何か匂います。日章旗を贈られた人物が誰なのか不明でして、何とも言えませんが……。

で、日章旗、額に入れられて展示されていました。タテヨコ1メートル前後、保存状態も良好でした。こちらは平成22年(2010)の七夕古書大入札会にも出品されましたが、現物を見るのは初めてでした。その前年だったかの連翹忌で、光太郎令甥の故・髙村規氏に、「こんなものが出て来て鑑定を頼まれたんだけど……」と、写真を見せられまして、在りし日の規氏を思い起こしました。


さらに今年は、2Fの一角に、出品目録には掲載されなかった追加出品の品々。そちらにも光太郎書簡が出ていました。智恵子の最期を看取った元看護師で姪の宮崎春子と、その夫で光太郎と交流の深かった宮崎稔にあてたもので、三十五通。おそらく全て『高村光太郎全集』に収録されているものだと思われます。

それぞれの出品物、光太郎以外のものも含め、収まるべきところに収まってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

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十三文半甲高。馬の糞をふんづけたのでのつぽとなる。神経過敏のやうな遅鈍のやうな、年寄のやうな、若いやうな、在るやうな無いやうな顔。

アンケート「自画像」全文 昭和5年(1930) 光太郎48歳

雑誌『美術新論』に、画像がそのまま載りました。

「十三文半」は足のサイズ。一文が約2.5㌢ですので、33.75㌢となります。ちなみに故・ジャイアント馬場さんの「十六文キック」は40㌢というわけですね。

当方よく存じませんが、馬糞を踏むとのっぽになるという迷信というか俗信というか、そういうものがあったのでしょうか。実際、光太郎の身長は180㌢以上だったようです。当時としては大男です。