またテレビ放映情報です。
光太郎と交流のあった夭折の天才画家・村山槐多(明治29年=1896~大正8年=1919)。先般、その未公開作品100余点が発見され、また脚光を浴び始めています。それらを展示している愛知県岡崎市のおかざき世界子ども美術博物館さんの「没後100年 岡崎が生んだ天才 村山槐多展」でのロケを中心にしています。
日曜美術館 「火だるま槐多~村山槐多の絵と詩~」
NHK Eテレ 2019年6月23日(日) 9:00~9:45 再放送 2019年6月30日 20:00~20:45自由奔放な絵を描き、22歳の若さで夭折した村山槐多。没後100年にあたる今年、展覧会開催を機に新発見の作品も相次いでいる。村山槐多の絵を詩の朗読とともに見ていく
火だるまのような色、ガランス(暗赤色)こそ槐多の絵の最大の特徴である。『自画像』や『カンナと少女』。そして赤いオーラを放ちながら裸の僧侶が小便する『尿する裸僧』。今年は槐多が亡くなって丁度(ちょうど)100年。展覧会の開催を機に新発見の作品も相次いでいる。番組では、新たな作品の紹介をまじえながら、村山槐多の絵を詩の朗読とともに見ていく
火だるまのような色、ガランス(暗赤色)こそ槐多の絵の最大の特徴である。『自画像』や『カンナと少女』。そして赤いオーラを放ちながら裸の僧侶が小便する『尿する裸僧』。今年は槐多が亡くなって丁度(ちょうど)100年。展覧会の開催を機に新発見の作品も相次いでいる。番組では、新たな作品の紹介をまじえながら、村山槐多の絵を詩の朗読とともに見ていく
【ゲスト】美術史家…村松和明
【出演】世田谷美術館館長…酒井忠康 詩人…高橋睦郎
【司会】小野正嗣 柴田祐規子






サブタイトルの「火だるま槐多」は、光太郎詩「村山槐多」(昭和10年=1935)から採って下さいました。
村山槐多
槐多(くわいた)は下駄でがたがた上つて来た。
又がたがた下駄をぬぐと、
今度はまつ赤な裸足(はだし)で上つて来た。
風袋(かざぶくろ)のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。
黒チョオクの「令嬢と乞食」。
今度はまつ赤な裸足(はだし)で上つて来た。
風袋(かざぶくろ)のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。
黒チョオクの「令嬢と乞食」。
いつでも一ぱい汗をかいてゐる肉塊槐多。
五臓六腑に脳細胞を遍在させた槐多。
強くて悲しい火だるま槐多。
無限に渇したインポテンツ。
五臓六腑に脳細胞を遍在させた槐多。
強くて悲しい火だるま槐多。
無限に渇したインポテンツ。
「何処にも画かきが居ないぢやないですか、画かきが。」
「居るよ。」
「僕は眼がつぶれたら自殺します。」
眼がつぶれなかつた画かきの槐多よ。
自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。
自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。

詩「村山槐多」は、槐多の死後17年も経ってからの作です。同様に、翌年には歿後26年経った親友の碌山荻原守衛を偲ぶ「荻原守衛」という詩も書いています。双方、根柢には先に逝ってしまった敬愛すべき親しい芸術家への哀悼の意がこめられ、似たような読後感を受けます。なぜこの時期に、という疑問が残りますが。
ちなみに、来月末から、長野県上田市でも槐多の作品展が開催されます。残念ながら休館となってしまった信濃デッサン館さん、それからこちらは現在も健在の戦没画学生慰霊美術館・無言館さん館長の窪島誠一郎氏が槐多に惚れ込み、かつては信濃デッサン館さんで描いた作品を多数展示されるなどしていた縁ですね。関連行事として窪島氏とおかざき世界子ども美術博物館副館長代行・村松和明氏の対談も予定されています。
他紙は存じませんが、『朝日新聞』さんでは広告も出ました。ただ、求龍堂さん自体のサイトにはまだ情報が出ていないようです。
当方、上田の展覧会には参ずるつもりです。関連する情報等出ましたら、またご紹介します。
さて、「日曜美術館」さん、ぜひご覧下さい。
【折々のことば・光太郎】
ロダンの彫刻や素画は近代が有し得た天才性の一分水嶺である。一均衡である。此巨大な芸術家の暗示する未だ目覚めざる美が東洋に在る事を信ずる私達は、先づ此古代的近代人の閲歴から生れた言葉を深く味ひたいと思ふ。
雑纂「訳書広告「続ロダンの言葉」」全文 大正9年(1920) 光太郎38歳
この年刊行された光太郎訳『続ロダンの言葉』の広告から。
いったいに光太郎は、自己の芸術を推し進めるだけでなく、先人(ロダンやミケランジェロその他)や同時代の芸術家(槐多や守衛など)にも学び、いいものはいいと評価する姿勢を崩しませんでした。
論語に曰くの「学而不思則罔 思而不学則殆」ですね。先人などに学ぶだけで自分なりの考えを持たなければ真の理解にはたどり着かず、自分だけの考えに頼って広く他から学ぶことをおろそかにすれば、独断に陥って危険だ、といったところでしょうか。光太郎はこのあたりのバランスが絶妙だったように思われます。