6月9日(日)、地方紙『福島民報』さんの一面コラム「あぶくま抄」。

女子体育の母

 二階堂トクヨは「女子体育の母」と呼ばれる。一九二二(大正十一)年、日本女子体育大の前身となる二階堂体操塾を開き、女性の体力と健康を高めようと努める。NHK大河ドラマ「いだてん」には、厳しく情熱に満ちた人物として登場する。
 宮城県に生まれ、福島大の前身校の一つである福島県師範学校を卒業した。一年間、油井尋常高等小学校(現二本松市油井小)の教壇に立つ。高等科の三年生だった長沼智恵子との交流が生まれる。のちにトクヨが英国へ留学に旅立つ時、智恵子は夫となる高村光太郎と横浜港で見送った。
 「二階堂トクヨ先生を顕彰する会」が三年前、宮城県で結成された。今年三月には生誕の地を示す看板を大崎市の公園に立てて、たたえる取り組みを進めている。智恵子をしのぶ二本松市の「智恵子の里レモン会」の会員は、本県で結ばれた師弟の強い絆を確かめる。
 両会によるとトクヨは師範学校に進む際、福島民報社の初代社長で衆院議員を務めた小笠原貞信の養女となり本県と関わりを深めたという。向学心、人を育てる思いに県境はない。一世紀余り前に出会った二人の女性の生き方は、古里の歴史に優しい彩りを添える。


二階堂トクヨ、「いだてん」では寺島しのぶさんが熱演(怪演?)なさっています。

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6月9日(日)放映の回では、終了後にトクヨの紹介も。

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以前も書きましたが、智恵子との交流のはじまりは、明治32年(1899)、トクヨが福島高等師範を卒業後、安達郡油井村(現・二本松市)の油井小学校に赴任してのこと。智恵子は高等科に在学中で、トクヨは智恵子の6歳下の妹・ミツ(尋常科2年)の担任でした。

当時の油井小学校。

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当時の智恵子。実家は県下有数の造り酒屋でしたので、いかにもです。そもそもこういう写真が残っている時点でお嬢様ですね。

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智恵子卒業時の集合写真。

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智恵子は最前列右から二人目。拡大すると上の画像。数え16歳で、4月から福島高等女学校に進む、その直前です。

トクヨも写っているのでは、と気がつき、探してみました。元の資料(『アルバム 高村智恵子―その愛と美の軌跡―』 平成2年=1990 二本松市教育委員会)では、キャプションに智恵子と、担任だった別の先生しか書かれていませんで……。

すると、最後列右から二人目が、どうもトクヨのようです。のちの写真と比べての判断ですが。

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『福島民報』さんの「あぶくま抄」にあるとおり、大正元年(1912)にトクヨが英国留学に発つ際に、智恵子は光太郎を伴って横浜港まで見送りに行ったということは伝わっています。ただ、その後、光太郎智恵子とどう関わったのか、疎遠になってしまったのかなど、今ひとつ分かりません。今後の課題とします。

『高村光太郎全集』では、トクヨの名は一回だけ出て来ます。大正2年(1913)に、光太郎が智恵子のすぐ下の妹・セキに送った書簡中の「二階堂さんからお便りがありますか」という一節です。失念していましたが、セキは、智恵子と同じく日本女子大学校を卒業後(智恵子は家政学部でしたが、セキは教育学部でした)、トクヨと同じ東京女子高等師範学校に入学し直したことが分かっています。セキの卒業は明治45年(1912)。トクヨは同37年(1904)に卒業しているはずですので、直接の関わりがあったかどうかは不明ですが、匂いますね。ちなみにトクヨの女高師進学に際しては、智恵子の実家からの援助があったそうで。

トクヨの評伝的な書物がかつて複数出版されていますので、少し調べてみようと思います。

「いだてん」に戻りますが、ドラマでのトクヨ、主人公金栗四三(中村勘九郎さん)の後輩で、アントワープ五輪の陸上十種競技に出場した野口源三郎(永山絢斗さん)に失恋する、という設定になっていました。これが史実かどうか存じませんが。

で、その野口が中心になって創刊された雑誌『アスレチツクス』が、前回放映で取り上げられました。

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この『アスレチツクス』へ、後に光太郎も寄稿しています。昭和5年(1930)7月の第8巻第7号に、詩「籠球スナツプ シヨツト」。バスケットボールをモチーフにした躍動感溢れる詩です。それから翌月号ではアンケート「山と海」に回答を寄せています。若い頃よく登った赤城山の思い出や、上高地で智恵子と結婚の約束を交わしたこと、欧米留学のため小さな貨客船で太平洋を渡ったことなどが語られています。

やはりこの時代が描かれている「いだてん」、今後も目が離せません。皆様もぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

カプリの島のグロツタ アズラは赤金にやけた浜の童の肌をも白金にするといふ。美しい物の好きな人は此の琅玕洞に立ち寄りたまへ。

雑纂「琅玕洞広告」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

「琅玕洞」は、神田淡路町に光太郎が開いた、ほぼ日本初の画廊です。その店名は、森鷗外の訳になるアンデルセンの『即興詩人』から採られました。「琅玕洞」=「グロツタ アズラ」=「GROTTE AZZURÉE」、イタリア・カプリ島の有名な「青の洞窟」のことです。

親友・荻原守衛などの作品を並べ、美術愛好家に好評を博しましたが、事業としてはまるで成り立たず、あえなくまる1年で手放すことになりました。