昭和25年(1950)1月、花巻郊外旧太田村の山小屋で逼塞していた光太郎、ひさびさに県都盛岡に出て、あちこちで講演などを行いました。県立美術工芸学校(現・岩手大学)、婦人之友生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校)、警察署、県立図書館など。その中に、盛岡少年刑務所さんも含まれていたとのこと。
少年刑務所では、五百数十名の青少年受刑者を前に講演を行いました。その際には、「心はいつでもあたらしく」と揮毫した書をこちらに残し、昭和52年(1977)、岩手県教誨師会の発意で、その書を刻んだ石碑が敷地内に建立。さらに翌年から、高村光太郎祭が開催されています。当方も一度、講演をおおせつかりました。
以前は法務省主催の「社会を明るくする運動」月間である7月の開催でしたが、今年はすでに開催されたということで、『朝日新聞』さんの岩手版が報じています。
岩手)反省し更生誓う 少年刑務所で高村光太郎の詩朗読
4人の受刑者は詩集を読んだ感想やこれからの決意を盛り込んだ作文を発表した。20代の男性受刑者は見捨てずに支えてくれた家族に感謝の気持ちを述べ、「未来は変えることができる」と力を込めた。
「出所したらまず家族に謝りたい」。取材に応じたこの受刑者は、刑務所生活を通してはじめて自分を支えてくれる家族のありがたさに気がついたという。罪を犯した理由を、欲求に流されてしまったからと自己分析。出所後は「自分の熱中できるものを見つけたい」と語った。
1945年に花巻市に疎開した光太郎は5年後に盛岡少年刑務所を訪れ、500人以上の受刑者を前に「青空たたえて」の題で講演した。少年らの更生を願って「心はいつでもあたらしく」と記した書を残している。(藤谷和広)
あまり報道されることが多くなく、されたとしても地元紙でベタ記事(一段組)になる程度で、ネットにこの行事の報道が出ることはまれです。一般の方々に、更生保護などの部分で関心を持っていただくためにも、もっと大きく取り上げていただきたいものですね。
【折々のことば・光太郎】
夏は山菜を食はず、多く畑の野菜をくひますが、これに慣れると八百屋のものなどくへません。秋には栗とキノコです。
散文断片「山の食ひもの」より 昭和24年(1949)頃 光太郎67歳頃
光太郎歿後に見つかった原稿用紙3枚(以降欠)の文章から。おそらく『婦人之友』に不定期に連載された「山~」シリーズの下書き的なものかと思われます。
「畑の野菜」は自作のもの。取りたてですからさもあらん、ですね。
野菜ではありませんが、毎年女川光太郎祭を開催して下さっている宮城県女川町の女川光太郎の会・須田勘太郎会長から、鮭の切り身が届きました。ありがたし。
須田さんや、女川光太郎の会事務局長だった故・貝(佐々木)廣さんの奥様からは、年に数回、さまざまな海産物が届きます。鮭以外にサンマ、ホヤ、アワビ、牡蠣など。やはりこちらのスーパーなどで購入するものとはひと味も二味も違います。もっとも、ホヤ、アワビなどの高級食材はそもそもスーパーでも購入しませんが(笑)。