先月亡くなった、高村光太郎賞受賞者の彫刻家・豊福知徳氏に関し、氏の故郷である福岡県に本社を置く『西日本新聞』さんが大きく記事にされています。
故豊福知徳さん彫刻作品を巡る 反戦の思い「穴」に込め
国際的に活躍した久留米市出身の彫刻家、豊福知徳さんが18日に亡くなった。享年94歳。福岡都市圏には、終戦後の旧満州(中国東北部)や朝鮮半島からの博多港引き揚げにちなむ大型記念碑「那の津往還」(福岡市博多区沖浜町)を始め、各所に作品が点在する。主な鑑賞スポットを紹介する。「那の津往還」はマリンメッセ福岡の脇の博多湾沿いにある。高さ15メートル、長さ17メートルの鋼製で、1996年に建立。黒っぽい色の船上に人間をイメージした朱色の像が立つ。
末広がりの上部に独特の楕円の穴が複数空く。舳先が向くのは、朝鮮半島かその先の中国か、北西の方角だ。豊福さん名の碑文には「敗戦直後の失意とその後に湧き興ってきた生への希望を永遠に記念する…」とあった。引き揚げ者が139万2400人余を数えた博多港の歴史を刻むモニュメントだ。引き揚げ経験者たちの声を受け、市が有識者らを交えた選定委をつくって、豊福さんの作品が選ばれた。
陸軍特別操縦見習士官として特攻出撃前に終戦を迎え、行き場を失った豊福さん自身の戦争体験と、日本軍不在の下、ソ連軍が侵攻し、襲撃の恐怖、飢餓と長旅の疲労に見舞われながら逃げ延びた引き揚げ者の苦難を重ねている‐。作品をそう解釈するのが、美術評論家で、豊福知徳財団理事長の安永幸一さん(80)。「記念碑には戦争へのアンチテーゼ、戦争放棄、戦争反対、という豊福さんの次世代へのメッセージがこもっていると思います」
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同市博多区下川端町の博多リバレイン前には、87年建立の「那の津幻想」がある。船上に人が立つデザインは30代の頃、高村光太郎賞を受けた出世作「漂流’58」のシリーズの一つで、「‐往還」もその系列だ。「‐幻想」は、人の胸に複数の楕円の空洞がある。戦争の空しさと戦後の心の漂流を形にして見せてくれているようにも感じる。
同市早良区百道浜4丁目には、「豊福知徳ギャラリー」がある。「世界的に著名な彫刻家の豊福さんとその作品をもっと多くの人に知ってほしい」と昨年夏オープンし、金・土・日曜と祝日の正午から午後6時まで無料で鑑賞できる。一部は販売している。代表的なシリーズものなど作品12点と描画4点を展示。代表の阿部和宣さんは「昨年から亡くなられた画家の浜田知明さんや宮崎進さんと同じように、豊福さんの創作の原点には戦争体験があったと思います。作品には精神性があって、見る側は何かを感じ、魅了される」と話す。
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篠栗町の若杉山中腹にあり、豊福さんがよく通ったのが「茶房 わらび野」。建物内外に大小の計7点の作品があり、喫茶や食事を楽しみながら鑑賞できる。福岡市街地と博多湾を見渡すカウンターがあり、豊福さんはそこでワインを飲んだという。「店を気に入っていただいて、作品は置いていかれた。未完ですが、最後の作品はここで彫られたんですよ」と、女将の久保山美紀さん。
豊福さんは1960年にイタリア・ミラノに渡り、そのまま定住。それまでの具象表現から、木に楕円形の穴をあしらった抽象形態に転じていった。
「当時、イタリアの新しい造形表現に触れていた豊福さんは偶然、楕円の穴が開いた時にピーンと来たのだと思う。穴のノミの鋭さにはどきっとするような切れ味がある。剣道や居合道に通じ古武士のようだった豊福さんらしい」。安永さんは和洋折衷の美を語る。
福岡市美術館は衝立状の大作を常設展示。県立美術館は、6月29日-8月29日に開くコレクション展で、所蔵の数点と肖像写真を追悼展示する予定だ。
過日も書きましたが、「高村光太郎賞」は、筑摩書房さんの第一次『高村光太郎全集』が完結した昭和33年(1958)から、その印税を光太郎の業績を記念する適当な事業に充てたいという、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった髙村豊周の希望で、昭和42年(1967)まで10年間限定で実施されました。造形と詩二部門で、豊福氏は造型部門の第2回受賞者です。ちなみに過日、新著『高村光太郎の戦後』をご紹介した中村稔氏、最終第10回の詩部門を受賞されています。
さらにいうなら、第5回詩部門(昭和37年=1962)で受賞の田中冬二(明治27年=1894~昭和55年=1980)の遺品類が山梨県立文学館さんに寄贈されており、その中に「高村光太郎賞」関連の資料も。光太郎が文字を刻んだ木皿を原型に、豊周が鋳造した賞牌などです。光太郎が好んで揮毫した「いくら廻されても針は天極をさす」の語が刻まれています。他に副賞ののし袋や授賞式の次第なども。閲覧も可能です。
![イメージ 5](https://livedoor.blogimg.jp/koyama287/imgs/1/c/1cc4f868.jpg)
![イメージ 6](https://livedoor.blogimg.jp/koyama287/imgs/9/6/960e5631.jpg)
同じ賞牌を授与された豊福氏の受賞作「漂流」そのものは木彫で、イタリアのコレクターに買われたとのことですが、同じ時期に作られたシリーズの1作が、博多に野外彫刻として展示されているそうで、これは存じませんでした。豊福氏というと「楕円の穴」ですが、そこには戦争体験も深く関わっていたとのことで、なるほどなぁ、という感じでした。
地元では氏の顕彰も進んでいるようです。光太郎共々、氏の功績も末永く語り継いでいってほしいものです。
【折々のことば・光太郎】
私は独学のつもりで、フランスのサロンのカタログや、西洋の美術雑誌の挿画の彫刻の写真などを参考にした。もとより甚だ幼稚で、今日から見るとつまらない大サロンの彫刻にひどく感心したり、物語性のある構図に深遠な意味があるやうに思つたりした。そして目の前にある生きたモデルがさつぱり分らず、空しくあはれな模写のやうな写生をつづけてゐた。
散文「モデルいろいろ1 ――アトリエにて6――」より
昭和30年(1955) 光太郎73歳
その少年時代、まだロダンを知る前の明治30年代の回想です。それからおよそ50年、ようやく豊福氏のように世界に通用する彫刻家が日本から出たわけです。やはり泥沼の十五年戦争の影響ですね。それがなければあるいは光太郎も世界的評価を得るに至れたかもしれません。