光太郎終焉の地・東京中野から朗読系イベント情報です。
会 場 : 古民家asagoro 東京都中野区若宮3丁目52-5
時 間 : 昼の部 13:30~15:30    宵の部 16:00~18:00
料 金 : ¥3,000

月を撮り続けているカメラマン、河戸浩一郎による映像作品の上映会です。月の映像詩の作品数本の上映と朗読を交えた映像作品の上演を行います。(朗読:蓑毛かおり)

今回はVol.8、全15回開催予定の折り返し地点でもあるので、いつもの作品上映に加え、新しい試みとして、高村光太郎の「智恵子抄」を取り上げ、月と絡めてご紹介します

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なかなかシャレオツなイベントのようですね。

確かに『智恵子抄』収録の詩篇の中には、月を詠み込んだものがいくつかあります。

まず結婚前、恋愛時代の作から。

 七月の夜の月は/見よ、ポプラアの林に熱を病めり  (「或る夜のこころ」 大正元年=1912)

 あなたは女だ/男のやうだと言はれても矢張女だ/あの蒼黒い空に汗ばんでゐる円い月だ/世界を夢に導き、刹那を永遠に置きかへようとする月だ  (「おそれ」 同)

 御覧なさい/煤烟(ばいえん)と油じみの停車場も/今は此の月と少し暑くるしい靄(もや)との中に/何か偉大な美を包んでゐる宝蔵のやうに見えるではないか/あの青と赤とのシグナルの明りは/無言と送目との間に絶大な役目を果たし/はるかに月夜の情調に歌をあはせてゐる  (同)

 瓦斯(ガス)の暖炉に火が燃える/ウウロン茶、風、細い夕月  (「或る宵」 同)

何となく、月の持つ一種の神秘性を智恵子に仮託しているようにも思えます。

その後は『智恵子抄』中に月はしばらく登場しません。次に月が現れるのは、智恵子の葬儀を謳った「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)。

    荒涼たる帰宅007 (2)

 あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ
 智恵子は死んでかへつて来た。
 十月の深夜のがらんどうなアトリエの
 小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
 私は智恵子をそつと置く。
 この一個の動かない人体の前に
 私はいつまでも立ちつくす。
 人は屏風をさかさにする。
 人は燭をともし香をたく。
 人は智恵子に化粧する。
 さうして事がひとりでに運ぶ。
 夜が明けたり日がくれたりして
 そこら中がにぎやかになり、
 家の中は花にうづまり、
 何処かの葬式のやうになり、
 いつのまにか智恵子が居なくなる。
 私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
 外は名月といふ月夜らしい。

ほぼ一切の感情を表す単語を排し、客観描写に徹しながら、しかしそれがかえって深い喪失感を表しているように思えます。葬儀は10月8日。たしかにちょうど中秋の名月の頃ですね。

ちなみにこの詩は『智恵子抄』刊行(昭和16年=1941)に際して書き下ろされたと推測されています。したがって、実際の智恵子の葬儀より3年近く経ってから書かれたものですが、まるでその場で書いているような臨場感が感じられます。

おそらく、このあたりを朗読で取り上げて下さるのでしょう。ありがたいかぎりです。


【折々のことば・光太郎】

ロンドンからパリへ来ると、西洋にはちがひないが、全く異質のものではない、自分の要素もいくらかはまじつてゐるやうな西洋、つまりインターナシヨナル的西洋を感じて、ひどく心がくつろいだ。魚が適温の海域に入つたやうな感じであつた。

散文「父との関係2 ――アトリエにて3――」より
昭和29年(1954) 光太郎72歳

そして、そのパリで、光太郎は芸術家として、また、人間として、開眼したということになるわけです。