『朝日新聞』さんの記事等から。
まず、今月9日の一面コラム「天声人語」。当会の祖・草野心平を取り上げて下さいました。
天声人語 危機の100万種
草野心平は「蛙(かえる)の詩人」と呼ばれた。その小さな生き物になりきるようにして、いくつもの詩をつくった。たとえば「秋の夜の会話」。〈痩せたね/君もずゐぶん痩せたね/どこがこんなに切ないんだらうね……〉▼切ないのは空腹のためだろうか。2匹の会話は続く。〈腹だらうかね/腹とつたら死ぬだらうね/死にたくはないね/さむいね/ああ虫がないてるね〉。やせこけた蛙たちの姿が浮かんでくる▼冬眠の前を描いた詩ではあるが、いまや別の読み方もできるかもしれない。国際的な科学者組織が先日、地球上に800万種いるとされる動植物のうち、100万種が絶滅の危機にあるとの報告書を公表した。なかでも両生類は40%以上が危機に直面している▼主犯は人間である。報告書によると湿地の85%はすでに消滅させられ、陸地も海も大きく影響を受けた。海洋哺乳類の33%以上、昆虫の10%も絶滅の可能性があるという▼農業や工業を通じ、地球をつくり変えながら生きてきたのが人間だが、その地球に頼るのもまた人間である。ハチがいるから農作物が育ち、森林があるから洪水が抑えられる。当たり前のことが改めて浮き彫りになっている。報告書は「今ならまだ間に合う」と各国政府に対策を求める▼草野心平にとっての蛙は、生きとし生けるものの象徴にも見える。〈みんなぼくたち。いっしょだもん。ぼくたち。まるまるそだってゆく〉。おたまじゃくしの詩である。全ての命のことだと読み替えてみたい。「秋の夜の会話」、さらに言うなら、核戦争後の人類が滅亡した地球を描いているようにも読めます。この詩は昭和3年(1928)の詩集『第百階級』に収められたもので、いまだ核兵器は開発される前のことですが……。
心平といえば、現在、心平の故郷・福島いわき市の市立草野心平記念文学館さんで、企画展「草野心平 蛙の詩」が開催中です。ぜひ足をお運びください。
ついでというとなんですが、同じ『朝日新聞』さんから、光太郎にも言及されている中川越氏著『すごい言い訳! 二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石』の書評。5月11日(土)の掲載でした。
文豪たちの機知に味わい 中川越さん「すごい言い訳!」
言い訳には「姑息(こそく)」「卑怯(ひきょう)」というイメージがある。だが、この本で取り上げられた文豪たちの言い訳は機知に富んでいて、一味違う。例えば中原中也。酒に酔って友人に迷惑をかけた際、詫(わ)び状の文末に署名代わりに「一人でカーニバルをやってた男」と記した。中川さんは「カーニバルの中にいる人は、無礼講に決まっています。その人にとやかく言うのは無粋です。こんなふうにトリッキーに書かれてしまっては、もう許すしかありません」と解説している。
ほかにも「禁じられた恋人にメルヘンチックに連絡した北原白秋」「二心を隠して夫に潔白を証明しようとした恋のモンスター林芙美子」「不十分な原稿と認めながらも一ミリも悪びれない徳冨蘆花」など、思わず読みたくなる項目が並ぶ。森鴎外、芥川龍之介、川端康成、三島由紀夫、太宰治らも次々と登場する。
文豪たちの言い訳の魅力は何か。
「辛気くさいものではなく、おしゃれに整えられていて、ユーモアのおまけまで付いている。一方で、いたわりの気持ちが深い味わいになっている」と話す。
最高峰は夏目漱石だとみている。「返済計画と完済期限を勝手に決めた偉そうな債務者」を読むと、いかにも漱石という感じでニヤリとさせられる。「文章の神髄は『そこに詩があるか』だと思うが、漱石がまさにそう。ある言葉が大きな意味合いを放って、心に触れてくる。漱石のすごみです」
10年前から漱石の手紙2500通を分析し始め、4年前から漱石以外の文豪たちの書簡や資料にも手を広げた。「砂金探しみたいで楽しかった」と振り返る。
土壇場に追い詰められたとき、気の利いた言い訳をしてみたい人にとって、最適の指南書だ。(文・西秀治、写真・篠塚ようこ)=朝日新聞2019年5月11日掲載
評には名前が出ていませんが、光太郎も「序文を頼まれその必要性を否定した 高村光太郎」という項で取り上げられています。
こちら、ぜひお買い求め下さい。
【折々のことば・光太郎】
本号にその文章が掲載されるといふ草野天平さんは若いのに昨年叡山で病死された優秀な詩人である。草野心平さんの実弟だが、詩風も行蔵もまるで違つてゐて、その美は世阿弥あたりの理念から出てゐるやうで、極度の圧搾が目立つ。きちんと坐つたまま一日でもじつとしてゐるやうな人で、此人のものをよむとシテ柱の前に立つたシテの風姿が連想される。
散文「余録」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳
心平ならぬ実弟の天平を評した文章の一節です。兄の心平は1分たりとも「じつとしてゐ」られない人でしたので(笑)、たしかに「まるで違つてゐ」たのでしょう。
ちなみに天平、過日亡くなった彫刻家の豊福知徳氏と共に、昭和34年(1959)、第2回高村光太郎賞を受賞しています。故人への授賞だったわけです。