予定では、智恵子の故郷、福島二本松に聳え、智恵子が「ほんとの空」があると言ったという安達太良山の山開きの件をレポートするつもりで居ましたが、急遽、訃報が入りましたのでそちらをご紹介します。
彫刻家の豊福知徳さんが死去 楕円の穴特徴
楕円形の穴を幾つも開けた抽象的な作品で知られる彫刻家の豊福知徳(とよふく・とものり)さんが18日午後11時57分、福岡市の病院で死去した。94歳。福岡県出身。葬儀・告別式は近親者で行う。後日、お別れの会を開く予定。喪主は長女夏子(なつこ)さん。
国学院大在学中に旧日本陸軍に志願し、終戦後は復学せず、彫刻家の冨永朝堂氏の下で木彫を学んだ。1959年に高村光太郎賞を受賞。60年にイタリアのミラノに拠点を移し40年以上活動した。2003年に帰国後は日本とイタリアを行き来しながら創作を続けた。
(共同通信)
世界的彫刻家の豊福知徳さん死去 「那の津往還」など
世界的な彫刻家の豊福知徳(とよふく・とものり)さんが18日、福岡市内の病院で死去した。94歳だった。葬儀は近親者で行う。喪主は長女夏子さん。後日、お別れの会を開く。
福岡県久留米市出身。59年に高村光太郎賞を受賞し、60年のベネチア・ビエンナーレ出品を機にイタリアへ移住。ミラノにアトリエを構え、40年以上にわたり現地で制作を続けた。楕円(だえん)形の穴をいくつも開けた独特な造形作品で知られ、ローマ国立近代美術館や東京国立近代美術館など、国内外の美術館に作品が所蔵されている。
福岡県久留米市出身。59年に高村光太郎賞を受賞し、60年のベネチア・ビエンナーレ出品を機にイタリアへ移住。ミラノにアトリエを構え、40年以上にわたり現地で制作を続けた。楕円(だえん)形の穴をいくつも開けた独特な造形作品で知られ、ローマ国立近代美術館や東京国立近代美術館など、国内外の美術館に作品が所蔵されている。
福岡市の博多港引揚(ひきあげ)記念碑「那の津往還」などの作品も手がけ、昨年には福岡市早良区百道浜に専門ギャラリーが開設された。
(朝日新聞)
昭和34年(1959)、木彫「漂流」により、第2回高村光太郎賞を受賞した彫刻家の豊福知徳氏の訃報です。ここに挙げた以外の各紙の報道でも、「高村光太郎賞受賞」が氏の経歴に必ずと言っていいほど記載されていました。
「高村光太郎賞」は、筑摩書房さんの第一次『高村光太郎全集』が完結した昭和33年(1958)から、その印税を光太郎の業績を記念する適当な事業に充てたいという、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった髙村豊周の希望で、10年間限定で実施されました。造形と詩二部門で、歴代受賞者には、造形が柳原義達、佐藤忠良、舟越保武、黒川紀章、建畠覚造、そして豊福氏など、詩では会田綱雄、草野天平、山之口獏、田中冬二、田村隆一ら、錚々たる顔ぶれ。審査員は高田博厚、今泉篤男、谷口吉郎、土方定一、本郷新、菊池一雄、草野心平、尾崎喜八、金子光晴、伊藤信吉、亀井勝一郎など、これまた多士済々でした。
当初から10回限定と決め、昭和42年(1967)で終了。同44年(1969)には、求龍堂さんから大判厚冊の『高村光太郎賞記念作品集 天極をさす』が刊行されました。歴代受賞者や審査員の作品等を紹介し、さらに高村光太郎賞の開始の経緯、年譜などが掲載されています。
そちらに載った豊福氏の彫刻が右画像です。
そして氏の言葉。
受賞作「漂流」は、私にとって殊に思い出深い作品であった。それは受賞作ということからではなく、その頃の自分の仕事の一くぎりを為した作品であったと思うからである。
処でこの重要なるべき作品の記録が手元にない。作品の所有者や所在地に加えて写真すらもないというのは私の不精のせいで、一九六〇年のヴェニス・ビエンナーレに出品して、そのままあるイタリアのコレクショナーに買取られたまではわかっているが、その後の消息は一切不明である。
この作品は受賞作ではなく、その頃しきりに制作していた漂流シリーズの中の一点である。
1950年代後半というと、ヘンリ・ムーアなどの影響もあって、彫刻の世界にも抽象がかなり入り込んできていましたが、この頃の氏の作風は完全な抽象でもなく、さりとて具象とも言えず、双方の良いところをバランスよく取り入れているように感じます。
当時の連翹忌は、高村光太郎賞の授賞式も兼ねていましたので、豊福氏、受賞された昭和34年(1959)と翌年の連翹忌に参加なさっています。受賞の年には豊福和子さんというお名前も参加名簿に残っており、おそらくご夫人なのでしょう。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
とにかく日本人の趣味、教養はいま実におくれている。四等国以下、野蛮人といつてよい。敗戦の混乱で日本人の正体が分つたわけで、実に徳川時代そのままなんだ。こうしたひどい状態で全然絶望かといえばそうでないとやはり考えたい。
談話筆記「ラジオと私」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳
敗戦の傷跡がまだ色濃く残っていたこの頃を憂えての発言です。光太郎が亡くなった昭和31年(1956)には「もはや戦後ではない」と言われ、文化的な部分でも新しいものがどんどん出てくるようになりました。豊福氏などもそうした新時代の旗手だったわけで……。重ねて謹んでご冥福をお祈り申し上げます。