5月15日(水)、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻郊外旧太田村で開催されました第62回高村祭。今日は高村祭自体ではなく高村光太郎記念館さんなどの状況をレポートしようと思っておりましたが、ありがたいことに地元メディア各社さんで高村祭の模様を取り上げて下さっていますので、そちらをご紹介します。
まず、地元紙『岩手日日』さん。
芸術家の生涯思いはせ 「雪白く積めり」朗読 花巻、高村祭 光太郎遺徳しのぶ
詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ高村祭は15日、花巻市太田のスポーツキャンプむら屋内運動場で開かれた。光太郎の詩の朗読や合唱、講演などが行われ、来場した市民らが花巻に大きな足跡を残した芸術家の生涯に思いをはせた。花巻高村光太郎記念会(大島俊克会長)と高村記念会山口支部(照井康徳支部長)が主催。戦禍を逃れて光太郎が花巻に疎開してきた1945(昭和20)年5月15日を記念して58年から開かれており、今年で62回目。雨天のため高村山荘碑詩前広場から屋内に変更して開催され、市内外から約500人が参加した。
光太郎の写真が飾られた祭壇に、太田小学校年の照井彩笑さん、照井莉心さんが花を手向け、花巻東高茶道部による献茶で開会。西南中学校の1年生が先導し、高村山荘の碑詩に刻まれた「雪白く積めり」の詩を参加者全員で朗読した。
大島会長と藤原忠雅副市長のあいさつに続き、太田小2年生17人が「かっこう」の器楽演奏、詩「案内」を朗読。児童たちは光太郎が詩人草野心平と共に作詞を指導した「旧山口小学校校歌」も歌って会場を和ませた。
西南中の1年生48人は、光太郎の「心はいつも あたらしく 日々何かしら 見いだそう」の言葉が盛り込まれた同校精神歌を合唱。花巻南高3年の三浦莉奈さんが「岩手山の肩」 、同じく横田遥奈さんが「激動するもの」の朗読に続き、花巻高等看護専門学校の1年生40人が「最低にして最高の道」「リンゴの詩」「花巻の四季」を会場に響かせた。
45年8月10日の花巻空襲で、身をていして負傷者を救護した医師や看護師に光太郎が贈った詩「非常の時」を朗読した同専門学校1年の佐々木優花さんは「花巻空襲時に働いていた人たちへの尊敬の思いを込めて朗読した。私も患者に寄り添うことができる看護師になりたい」と話していた。
発表後は、総合花巻病院の後藤勝也院長が「高村光太郎と花巻病院」と題して講演した。

続いて、NHKさんのローカルニュース。
光太郎しのぶ「高村祭」
詩人で彫刻家の高村光太郎が、戦中から戦後にかけて7年間を過ごした花巻市で、15日光太郎をしのぶ催しが開かれました。

高村光太郎は、昭和20年4月、62歳の時に空襲で東京のアトリエが焼け、宮沢賢治の弟、清六を頼って花巻に疎開して、69歳までの7年間を過ごしました。
花巻市では、光太郎が疎開してきた5月15日に合わせて毎年「高村祭」が開かれていて、ことしで62回目になります。
光太郎が暮らした山荘近くの施設には地元の人や光太郎のファンなどおよそ500人が集まり、花を供えたあと、光太郎が疎開したときに作った詩、「雪白く積めり」などを朗読したり歌を歌ったりしました。
花巻市では、光太郎が疎開してきた5月15日に合わせて毎年「高村祭」が開かれていて、ことしで62回目になります。
光太郎が暮らした山荘近くの施設には地元の人や光太郎のファンなどおよそ500人が集まり、花を供えたあと、光太郎が疎開したときに作った詩、「雪白く積めり」などを朗読したり歌を歌ったりしました。


昭和20年の花巻空襲を詠んだ「非常の時」の詩を朗読した、花巻高等看護専門学校1年の佐々木優花さんは、「戦争を知らない世代なのでこの詩を読んで戦争の恐さを感じた。人は強い時も弱い時もあるが、もしもの時には強い心で向かっていきたい」と話していました。
また昭和25年、中学3年生の時に山荘で光太郎と話したという83歳の女性は、「友達と連絡もしないで山荘に行くと光太郎先生に声をかけられ、父親の光雲さんや妻・智恵子さんの話を聞きました。次元が高くすごい人だなと感じました」と話していました。
また昭和25年、中学3年生の時に山荘で光太郎と話したという83歳の女性は、「友達と連絡もしないで山荘に行くと光太郎先生に声をかけられ、父親の光雲さんや妻・智恵子さんの話を聞きました。次元が高くすごい人だなと感じました」と話していました。


さらに、岩手めんこいテレビさん。
高村光太郎しのび「高村祭」 ゆかりの花巻市で
花巻ゆかりの芸術家に思いをはせました。詩集「智恵子抄」などで知られる、詩人で彫刻家の高村光太郎をしのぶ「高村祭」が、15日、花巻市で開かれました。
高村光太郎は、1945年の15日、花巻市に疎開し、太田地区で7年を過ごしました。
「高村祭」は今年で62回目を迎え、県内外からおよそ500人が集まりました。
式では、地元の児童や生徒たちが、光太郎ゆかりの歌や詩の朗読などを披露しました。




岩手山の肩
「岩手山があるかぎり、南部人種は腐れない。新年はチャンスだ、あの山のやうに君らはも一度天地に立て」
花巻南高校 3年・三浦莉奈さんは、「地域の人たちにも、高村光太郎先生の詩はすてきなものだと、自分の口で伝えていきたい」と話しました。


また、サンタクロースの光太郎と記念撮影をした、当時の小学生にも話を聞きました。
高村光太郎と記念撮影した高橋征一さん(76)は、「毎日、正直で、みんなといっしょに仲良く暮らしてください(と言われ)、『正直親切』という言葉が、一番記憶に残っている」と話しました。
参加した人たちは、花巻を愛した芸術家・高村光太郎に思いをはせていました。


高村祭、毎年5月15日です。まだ行かれたことのない方、来年以降、ぜひよろしくお願いいたします。
【折々のことば・光太郎】
山口部落で畑をいぢつてばかりゐた八年間のブランクがブランクになつてゐなかつた事を知つた。マイナスであるべきものがむしろプラスになつてゐるのを知つた。恐らく人間の潜在意識といふものが内で造型意識を眠らせずにゐたものと思へるし、頭の中にたまつてゐたものが今堰を切つて流れはじめたやうな感じである。
散文「制作現況」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳
生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した直後の文章です。高村祭が開催される旧太田村での生活(正確には丸7年ですが、それ以前に旧花巻町の宮沢家、佐藤家などで過ごした半年間を含めれば、足かけ8年です)が、彫刻制作の上でも決してマイナスに作用していないとの発言。多分に強がり的な要素や、発表された文章を目にするであろう花巻や太田村の人々に対する配慮などもあるのでしょうが、作りたい彫刻を作りたいように作れる喜びは、実際、ブランクを埋めて余りあるものだったと思われます。