一昨日から1泊で花巻に行っておりました。

昨日は、郊外旧太田村で、第62回高村祭。昭和20年(1945)、本郷区駒込林町のアトリエ兼住居をを空襲で失った光太郎が、宮沢賢治の実家や賢治の主治医・佐藤隆房らの勧めで、花巻に疎開。そのために東京を発った5月15日に、毎年、高村祭が開催されています。

例年は光太郎が7年間暮らした山小屋(高村山荘)敷地内の「雪白く積めり」詩碑(光太郎の遺骨ならぬ遺髯が埋まっています)の前で行っていましたが、昨日は朝まで本格的な雨だったため、数百メートル離れた旧山口小学校跡地の、スポーツキャンプ村屋内運動場(通称・高村ドーム)での実施となりました。こちらが会場となるのは平成24年(2012)以来のことでした。

前日から、光太郎もよく泊まっていた大沢温泉さんに宿泊していましたが、朝5時過ぎに宿を出、レンタカーで旧太田村、高村山荘に。

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5時半から会場設営と言うことで、そのお手伝いです。その時点でかなりの雨だったので、高村ドームでの開催が決定。早速、作業にかかりました。当方、高村祭で講演などを仰せつかったりもしますが、こういう力仕事の方が性に合っています(笑)。

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ほぼ終わったところで、宿に戻りました。5時過ぎではチェックアウトも出来なかったので。ついでに雨に濡れた体を露天風呂で温めました。

そして再び旧太田村。シャンソン系歌手のモンデンモモさん、舞踊家の増田真也さんと落ち合い、開会前に周辺をご案内しました。そのあたりは明日書きますので省略。

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午前10時、開会。

光太郎遺影に献花・献茶の後、市立西南中学校の生徒さんの先導で、光太郎詩「雪白く積めり」(昭和20年=1945)を全員で朗読。その後、主催者ということで、花巻高村光太郎記念会の新会長・大島俊克氏のご挨拶など。

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山口小学校が統合された太田小学校さん2年生児童の合奏、光太郎詩「案内」の群読。それから旧山口小学校の校歌斉唱。光太郎作詞ではありませんが、光太郎や当会の祖・草野心平のアドバイスは入っているとのこと。それにしても数十年前に廃校になった学校の校歌が歌い継がれているというのは驚きです。

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西南中学校さん1年生諸君は、光太郎を詠み込んだ歌詞の「西南中学校精神歌」。さらに語りも今年は今までより充実していました。

詩の朗読で、花巻南高校さんと花巻高等看護専門学校の生徒さん。

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花巻高等看護専門学校の皆さんは、さらに合唱も。

第1部の最後は、総合花巻病院さんの後藤勝也院長による記念講演「高村光太郎と花巻病院」。

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花巻病院、そして先述の佐藤隆房元院長と光太郎とのエピソードなどをご紹介下さいました。後藤院長ご自身、幼い頃に花巻電鉄の車内で光太郎が向かいの席に座ったというご経験がおありだそうでした。

昼食後、第2部。地元の方々のお祭り的な要素が色濃く残っています。光太郎がこの地にいた頃は、旧山口小学校でこの時期に運動会(光太郎もビンつり競走に出場しました)が実施され、それが地区全体のイベントのような感じでしたが、それが高村祭に引き継がれているように思われます。

トップバッターは、昨年から参加して下さっている花巻農業高校鹿(しし)踊り部の皆さん。昨夏、長野県で行われた第42回全国高校総合文化祭郷土芸能部門で、見事、最優秀賞を受賞されました。

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勇壮な演舞でした。激しい動きで、しかもかなり長時間。こりゃ大変だ、と思っていましたところ、踊り終わってかぶりものを取ったら、何と、女子生徒も2名混ざっていまして、驚きました。

ちなみにこの鹿踊りに触発されて現れたのでしょうか、この後、会場を後に新花巻駅を目指してレンタカーを発車したところ、会場すぐ近くの山口集落の中心あたりで、野生の鹿(牝鹿でした)に遭遇しました。このあたり、年に3、4回は訪れているのですが、鹿に遭遇したのは初めてで、これにも驚きました。残念ながら急いでいたので、車を駐めて写真を撮る余裕がありませんでしたが。

閑話休題、高村祭に戻ります。

続いては地元の婦人会の皆さんの踊り。婦人会といいつつ、歌と太鼓は男性の方(笑)。しかもお一人は、昭和24年(1949)、サンタクロース姿の光太郎と一緒に写真に収まった高橋征一さんでした。

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改めてこの山口小学校があった場所で高村祭が行われているんだなと、感慨深いものがありました。

そして、モンデンモモさん。

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光太郎詩にオリジナルの曲を付けた「道程~冬が来た」「案内」「もしも智恵子が」の3曲を熱唱。

ここまで拝見拝聴したところで、家庭の事情もあり、早く帰らねばならず中座させていただきました。

帰ってからネットを開くと、早速、IBC岩手放送さんのローカルニュースがアップされていました。

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詩人で彫刻家の光太郎を偲ぶ「高村祭」/岩手・花巻市

 岩手ゆかりの詩人で彫刻家の高村光太郎を偲ぶ「高村祭」が15日、花巻市で開かれました。
 高村光太郎は、詩集「道程」や「智恵子抄」などの作者として知られています。62回目を数える今年の高村祭は、朝方の雨の影響で光太郎が過ごした高村山荘に近い、屋内運動場に場所を移して開かれました。
(朗読)
「雪白く積めり…」
 高村祭は、74年前の5月15日に光太郎が戦火を逃れて東京を発ち花巻に疎開したことから、毎年この日に開催されています。地元の中学生や高校生が光太郎の詩の一節を引用した歌や、作品の朗読を披露しました。
(合唱)
「心はいつもあたらしく…」
(朗読)
「岩手山があるかぎり南部人種は腐れない新年はチャンスだあの山のように君らはも一度天地に立て」
(花巻南高校3年・三浦莉奈さん)
「(光太郎の詩は)聞いている人にダイレクトに届く人に伝わりやすい」
 会場には県の内外から多くのファンが足を運び、朗読やコーラスに耳を傾けて光太郎に思いを馳せていました。


手作り感溢れる、しかし盛大に行われた高村祭。泉下の光太郎、面はゆい思いをしつつも喜んでいるのではないでしょうか。

明日も関連する内容で。


【折々のことば・光太郎】

以前にはパリの「空気」ベルリンの「空気」と並んで、東京の「空気」があつた。それが今は「東京」といつても何もないではないか。ただもの珍しい文化のかけらが、尖つたガラスの破片が散らばつているようにそこらにあるだけで、私はそうしたものにはぶつかるが「空気」を感ずることができない。

談話筆記「おろかなる都」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した直後のインタビューから。7年ぶりに見た生まれ故郷・東京は、光太郎の目にはこう映っていたのです。