「令和」初日の昨日、「令和」最初の遠出ということで、当会の祖・草野心平を顕彰するいわき市立草野心平記念文学館さんにお邪魔して参りました。同館では先月から企画展「草野心平 蛙の詩」が開催されています。
心平の詩というと、蛙をモチーフにしたものが多く、今回の企画展、いわば一周回って原点回帰のような感じがしました(同じことは、平成最後の遠出となった信州安曇野碌山美術館さんでの企画展示「荻原守衛生誕140周年記念特別企画展 傑作《女》を見る」にも言えるような)。ある意味、大事なことです。
心平の蛙の詩は、200篇以上だそうで、ほぼ制作順に、それらの掲載雑誌、詩集、詩稿などがずらり。パネルでは代表的な詩の全文が幾つか紹介されていました。
蛙の詩を中心とした心平詩集は6冊刊行されており、うち3冊は光太郎が深く関わっています。
それだけでなく、心平と光太郎、お互いに影響を与え合っていたというのが実感されました。
『第百階級』に収められた心平の詩。大きくパネルに印刷されていました。
ヤマカガシの腹の中から仲間に告げるゲリゲの言葉
痛いのは当り前ぢやないか。
声をたてるのも当りまへだらうぢやないか。
ギリギリ喰はれてゐるんだから。
おれはちつとも泣かないんだが。
遠くでするコーラスに合はして歌ひたいんだが。
泣き出すことも当り前ぢやないか。
みんな生理のお話ぢやないか。
どてつぱらから両脚はグチヤグチヤ喰ひちぎられてしまつて。
いま逆歯が胸んところに突きささつたが。
どうせもうすぐ死ぬだらうが。
みんなの言ふのを笑ひながして。
こいつの尻つぽに喰らひついたおれが。
解りすぎる程当然こいつに喰らひつかれて。
解りすぎる程はつきり死んでゆくのに。
後悔なんてものは微塵もなからうぢやないか。
泣き声なんてものは。
仲間よ安心しろ。
みんな生理のお話ぢやないか。
おれはこいつの食道をギリリギリリさがつてゆく。
ガルルがやられたときのやうに。
こいつは木にまきついておれを圧しつぶすのだ。
そしたらおれはぐちやぐちやになるのだ。
フンそいつがなんだ。
死んだら死んだで生きてゆくのだ。
おれの死際に君たちの万歳コーラスがきこえるやうに。
ドシドシガンガン歌つてくれ。
しみつたれいはなかつたおれぢやないか。
ゲリゲぢやないか。
満月ぢやないか。
十五夜はおれたちのお祭ぢやあないか。
声をたてるのも当りまへだらうぢやないか。
ギリギリ喰はれてゐるんだから。
おれはちつとも泣かないんだが。
遠くでするコーラスに合はして歌ひたいんだが。
泣き出すことも当り前ぢやないか。
みんな生理のお話ぢやないか。
どてつぱらから両脚はグチヤグチヤ喰ひちぎられてしまつて。
いま逆歯が胸んところに突きささつたが。
どうせもうすぐ死ぬだらうが。
みんなの言ふのを笑ひながして。
こいつの尻つぽに喰らひついたおれが。
解りすぎる程当然こいつに喰らひつかれて。
解りすぎる程はつきり死んでゆくのに。
後悔なんてものは微塵もなからうぢやないか。
泣き声なんてものは。
仲間よ安心しろ。
みんな生理のお話ぢやないか。
おれはこいつの食道をギリリギリリさがつてゆく。
ガルルがやられたときのやうに。
こいつは木にまきついておれを圧しつぶすのだ。
そしたらおれはぐちやぐちやになるのだ。
フンそいつがなんだ。
死んだら死んだで生きてゆくのだ。
おれの死際に君たちの万歳コーラスがきこえるやうに。
ドシドシガンガン歌つてくれ。
しみつたれいはなかつたおれぢやないか。
ゲリゲぢやないか。
満月ぢやないか。
十五夜はおれたちのお祭ぢやあないか。
同じ昭和3年(1928)に発表された、光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」。
ぼろぼろな駝鳥
何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
動物園の四坪半のぬかるみの中では、
脚が大股過ぎるぢやないか。
頸があんまり長過ぎるぢやないか。
雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
腹がへるから堅パンも食ふだらうが、
駝鳥の眼は遠くばかりみてゐるぢやないか。
身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるぢやないか。
これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。
人間よ、
もう止せ、こんな事は。
何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
動物園の四坪半のぬかるみの中では、
脚が大股過ぎるぢやないか。
頸があんまり長過ぎるぢやないか。
雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
腹がへるから堅パンも食ふだらうが、
駝鳥の眼は遠くばかりみてゐるぢやないか。
身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるぢやないか。
これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。
人間よ、
もう止せ、こんな事は。
ともに「ぢやないか」のリフレイン。
「ぼろぼろな駝鳥」の発表は3月(ちなみに心平主宰の雑誌『銅鑼』第14号でした)。『第百階級』の刊行は、11月。「ヤマカガシの……」がいつ執筆されたのか、当方は不分明ですが、どちらが先にせよ、先行する方に影響されているのは明らかなような気がします。
「ぼろぼろな駝鳥」は、連作詩「猛獣篇」の一篇。この「猛獣篇」自体も、心平の蛙の詩からのインスパイアがあるのでは、とも思いました。心平が蛙という特定の種をモチーフにしたのに対し、光太郎は駝鳥やら象やら白熊やら、さまざまな生物(中には妖怪かまいたち、龍なども)を主題としていますが、それぞれ、反体制、虐げられる人々やその一部としての自己といったものが仮託されています。ただし、のちに泥沼の戦争の激化に伴い、かつて矛盾する社会を両断する快刀乱麻だった「猛獣」は、大政翼賛のご用聞きに成り下がりますが……。
企画展示以外に、常設展示コーナーの片隅に、いわきゆかりの作家で、心平、光太郎と交友があった猪狩満直の生涯と作品の魅力を紹介する「スポット展示 猪狩満直」が設けられています(6月30日(日)まで)。
光太郎が激賞した詩集『移住民』(昭和5年=1930)なども並び、こちらも興味深く拝見しました。
常設展示コーナーといえば、以前から光太郎より心平宛の葉書も展示されています。そうしたコーナーのトップに展示していただいており、ありがたいかぎりです。昭和23年(1948)8月12日付のもので、最後に次のような一節があります。
多くのものが滅び去る時貴下のものは消えないでせう。人為の如何ともし難いものがあるでせう。
いかに光太郎が心平を買っていたか、象徴的な一節です。この言葉通り、心平の、そして光太郎本人の詩、令和の時代となっても語り継がれていくことを願ってやみません。
【折々のことば・光太郎】
人類はいつか必ず合成食料で十分の栄養をとり得るやうになると思ふが、さういふ時のくるまで、人は鳥獣魚介を殺して自己の身を養はねばならないであらう。むざんな事だが止むを得ない。
散文「みちのく便り 二」より 昭和25年(1950)より 光太郎68歳
遠く明治末のパリ留学時にはフランス料理のオードブルとして、そして戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中には貴重なタンパク源として、光太郎は蛙を食べていたそうです。