光太郎と交流のあった造形作家について、2件。
まず、画家の村山槐多。4月24日(水)、『中日新聞』さんの記事から。
村山槐多、未公開作128点初公開 岡崎生まれの画家
愛知県岡崎市生まれの詩人画家、村山槐多(かいた)(一八九六~一九一九年)の油彩画やパステル画などの未公開作品計百二十八点が京都府内の恩師や同級生宅などから新たに見つかった。おかざき世界子ども美術博物館(岡崎市)で六月一日から開かれる槐多没後百年を記念する展覧会で初公開される。
槐多は日本美術院賞を受けるなど大正時代に活躍。画家横山大観に実力を認められ、死後には詩人高村光太郎が「強くて悲しい火だるま槐多」と詩に残して哀悼した。ただ槐多は二十二歳の若さで早世し、画家としての活動期間はわずか五年。このため作品は希少な上、これまでに約二百五十点しか確認されていなかった。今回新たに見つかったのは、槐多が絵に取り組み始めた小中学生時代の初期作品をはじめ最盛期の二十代の作品で、風景画など油彩十点とパステルや水彩など百十八点。同館の学芸員村松和明(やすはる)さん(56)によると、初期作品はこれまでほとんど見つかっておらず、特に油彩作品は槐多が十八歳で上京した後の二十七点しか確認されていなかった。
油彩で注目されるのは、槐多がいとこの画家山本鼎(かなえ)(一八八二~一九四六年)から油彩道具一式をもらって絵を真剣に描き始めたとされる十四歳ごろの作品。連なる山々を濃い緑色で描き、湧き立つ白い雲がかぶさる様子を表現している。
代表作の水彩「カンナと少女」に登場する花のカンナを、単独で描いた油彩「カンナ」も見つかった。両作品とも同時期に描かれており、村松さんは「槐多が水彩から油彩に活動の中心を移していく転換点ではないか」と推測する。
パステルの全作品は上京前に描かれており、寺の山門やかやぶき屋根の家などの建造物、森や川などの自然を題材にした作品が多かった。今回発見された晩年の油彩作品も、千葉県房総半島の大自然を繊細なタッチで表現していた。これらの作品は、代表作の油彩画「尿(いばり)する裸僧」のように荒々しい作風とは全く異なり「今回公表する絵を見比べれば、槐多へのイメージは一変する」と力を込める。
作品の多くは旧制京都府立第一中学校(現在の洛北高校)に通っていた槐多の同級生や先生らの家から見つかった。村松さんは槐多研究を三十年以上続け、持ち主に作品公開の交渉を進めていた。今回は槐多の没後百年にちなんで特別に貸し出しを受けた。
(鎌田旭昇)
<村山槐多(むらやま・かいた)> 4歳で京都府に移り住む。府立第一中学校に在学中、いとこの画家山本鼎に画才を見いだされた。卒業後、画家を目指して上京を決意。途中、長野県にある鼎の父親宅に2カ月間滞在し、田園風景を描く。上京後は感情を表に出す激しい筆致と色使いの作品を多く残した。小説や詩も書き続けながら、酒浸りの退廃的な生活を重ね、結核性肺炎で1919年に急逝した。翌年、詩集「槐多の歌へる」が刊行された。
村山槐多は、光太郎より13歳年下の明治29年(1896)生まれ。宮沢賢治と同年です。大正8年(1919)に、数え24歳で結核のため夭折。その晩年、光太郎と交流があり、光太郎はそのままずばり「村山槐多」(昭和10年=1935)という詩も書いています。
村山槐多
槐多(くわいた)は下駄でがたがた上つて来た。
又がたがた下駄をぬぐと、
今度はまつ赤な裸足(はだし)で上つて来た。
風袋(かざぶくろ)のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。
黒チョオクの「令嬢と乞食」。
又がたがた下駄をぬぐと、
今度はまつ赤な裸足(はだし)で上つて来た。
風袋(かざぶくろ)のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。
黒チョオクの「令嬢と乞食」。
いつでも一ぱい汗をかいてゐる肉塊槐多。
五臓六腑に脳細胞を遍在させた槐多。
強くて悲しい火だるま槐多。
無限に渇したインポテンツ。
五臓六腑に脳細胞を遍在させた槐多。
強くて悲しい火だるま槐多。
無限に渇したインポテンツ。
「何処にも画かきが居ないぢやないですか、画かきが。」
「居るよ。」
「僕は眼がつぶれたら自殺します。」
「居るよ。」
「僕は眼がつぶれたら自殺します。」
眼がつぶれなかつた画かきの槐多よ。
自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。
自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。
画家だった村山ですが、詩も書き、光太郎に見て貰ったりもしていました。歿した翌年、大正9年(1920)には、『槐多の歌へる』の題で詩集が出版されています。光太郎は推薦文も寄せています。
夭折の画家だけに遺された作品数は少なく、それが今回100点超の未発表作品が出て来たというのは驚きでした。
続いて、彫刻家の柳原義達。一昨日の『岩手日日』さんから。
彫刻に満ちる命 岩手県立美術館 柳原義達 特別展示始まる
柳原は神戸市出身で、東京美術学校(現東京芸術大)彫刻科で学び、在学中には高村光太郎の影響を受けた。戦後は仏現代彫刻に魅せられ、彫刻を一から学び直すため43歳で渡仏。4年余りにわたって研鑚(けんさん)を積み、帰国した後はアカデミズムから離れ独自の彫刻世界を確立した。
裸婦像のうち、北海道釧路市の幣舞(ぬさまい)橋に設置されている橋上彫刻「道東の四季の像・秋」は、舟越、佐藤忠良、本郷新と共に手掛けた作品。舟越の春の像は同館玄関ロータリーの前庭に建つ。舟越とは2歳年上の先輩で東京美術学校彫刻科、国画会、新制作派協会と同じ道をたどり、切磋琢磨(せっさたくま)し合った仲だという。
作品の中でもよく知られているのが、鴉や鳩を主題とした「道標(どうひょう)」シリーズ。動物愛護協会からの制作依頼を機に鳥に関心を抱き、自宅でも飼育するようになり、鳩や鴉の像を制作した。
作品の中でもよく知られているのが、鴉や鳩を主題とした「道標(どうひょう)」シリーズ。動物愛護協会からの制作依頼を機に鳥に関心を抱き、自宅でも飼育するようになり、鳩や鴉の像を制作した。
また彫刻家としての空間認識が分かる素描作品や、陸前高田市博物館近くの屋外に設置され東日本大震災津波で損傷したものの応急処置が施されて公開されているブロンズ像「岩頭の女(ひと)」なども並ぶ。
同館学芸普及課長の吉田尊子さんは「柳原は舟越と関連のある作家だが、舟越とは違う個性がある。初期から晩年までの作品を楽しんでいただけるので足を運んでほしい」と話す。
特別展示は10月20日まで。関連イベントとして5月25日には三重県立美術館顧問の毛利伊知郎氏による記念講演「柳原義達、舟越保武と戦後日本彫刻」もある。
柳原義達は明治43年(1910)生まれの彫刻家。東京美術学校彫刻科を出ていますので、光太郎の後輩です。その際、朝倉文夫に師事していますが、直接指導を仰いだわけではない光太郎に影響されたと語っています。記事にも出てくる舟越保武と親しく、舟越は光太郎と直接関わっていました。
柳原は、光太郎歿後の昭和33年(1958)から、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』の印税を光太郎の業績を記念する適当な事業に充てたいという、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった豊周の希望で10年間限定で実施された「高村光太郎賞」の、栄えある第1回受賞者となっています。ちなみに舟越は昭和37年(1962)、第5回の受賞です。
上記に画像を載せた「道東の四季の像」は、「四季の乙女の像」とも称され、光太郎のDNAを受け継ぐ4人の彫刻家の競演となっています。
左から、「春」が舟越、「夏」は佐藤忠良、「秋」を柳原、そして「冬」で本郷新。それぞれ高村光太郎賞の受賞者だったり、審査員だったりします。
さて、村山、柳原、それぞれの展示についての詳細は割愛しますが、お近くの方、ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
此の季節による植物生活の規則正しさは恐ろしいほどで殆と一日を争ひ、一日を争ひ、その又一刻を争ふ。山に棲んでみてはじめて私は一年三百六十五日の日々の意味をはつきり知つた。
散文「季節のきびしさ」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳
老年に入ってから、このように大きく人生観の転換を強いられることもあるわけで、それは光太郎にとって大きな財産ともなったと思われます。