今月15日の『毎日新聞』さん夕刊に、以下の記事が載りました。同紙特別編集委員・梅津時比古氏の、音楽に関する連載エッセイです。

音のかなたへ 自筆原稿からの音

 久しぶりに会った彼は、少し日に焼けたせいか、引き締まってたくましく見えた。
 ぼろぼろに古びて茶色になった箱入りの本をこちらへ差し出した。『ベートーヴェン研究 小原國芳編』(東京イデア書院)。
 「開けてください」と短く言った。
 箱から出してまず奥付を見ると、昭和二年十月二十日の発行である。
 何かが挟まれていてすぐにあいてしまった頁(ページ)には、「二つに裂かれたベエトオフエン(幻想スケッチ)」と題された高村光太郎の詩が載っていた。
 <(略)春がヴィインの空へやつて来て、/さつき窓から彼をのぞき込んだ。(略)>
 彫刻家、詩人の高村の作品の中でもよく知られた詩である。最後を結ぶのは<彼は二つに引き裂かれて存在を失ひ、/今こそあの超自然な静けさが忍んで来た。/オオケストラをぱたりと沈黙させる神の智慧が、/またあの窓から来たのである。>。ここに主眼があるのだろう。高村は、二つに引き裂くものを、人から裏切られる絶望と、 一人立つ歓喜として、その上で、自然を神の書物とするヨーロッパ根源の思想をベートーベンに見ている。
 頁に挟まっているのは何か。茶色に変色した松屋製の400字詰め原稿用紙2枚が紙のこよりでとじてあった。青いインクで「二つに裂かれたベエトオフエン(幻想スケッチ)」が書いてある。本では「ぢつとして」とあるのが原稿には「じつとして」となっているなど違いがある。
  彼の話では東京・神田の古本屋で本を買った後、その場で頁をめくっていると原稿が出てきたとのこと。店主が慌ててすぐ鑑定士を呼んで見せると、高村の自筆原稿に間違いないとの結果が出た。買い戻したいと言う店主を、支払いは済んだ、と振り切ってきたという。
 自筆と思われる字は、若々しい高ぶりが匂い立つ。高村のベートーベンに対する真摯( しんし)な思いが震えている。丁寧だが勢いのある青い字体のひとつひとつが、罫線(けいせん)からあふれ出ている。原稿用紙に音がはねる。こよりは最愛の智恵子がよったのでは、と想像も湧く。
 彼はそれを私にくれると言う。そんな貴重なものを、と固辞したが、譲らない。
 かつてレコード会社に勤めていた彼は、その後、仕事の変遷を経て、今は学生のときにアルバイトをしていた仕事に何十年ぶりかに復帰した。都内の公園にある池のボート番である。「ボートを洗うときの寒さが応えるが、毎日、沈んでゆく夕日を見ているのは至福」と言う。 自然はすなわち哲学なのだろう。高村の詩に書かれている、野にいるベートーベン像が重なった。 何かに打たれ、原稿付きの本を受け取った。

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光太郎の自筆詩稿がはさまった書籍を譲られた、というのです。

譲ってくれたという友人は、それを古書店で購入、古書店主はそれが挟まっていたことに気づいていなかったそうで、すると、たいした値をつけていなかったのでしょう。

鑑定士を呼んで見てもらったら、確かに光太郎の自筆原稿だったそうで(この場合の「鑑定士」というのがどういう人なのか興味深いところですが)、確かに画像で見ても光太郎の筆跡です。使われている原稿用紙もよく光太郎が使っていたもの。

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詩は、「二つに裂かれたベエトオフエン」。梅津氏曰くの「高村の作品の中でもよく知られた詩である」というのには疑問符が付きますが、昭和2年(1927)4月9日(火)の執筆で、初出は雑誌『全人』第10号(ベートーヴェン百年祭記念号)。『全人』は、玉川大学さんの広報誌として、現在も月刊で刊行が続いています。梅津氏が譲られたという『ベートーヴェン研究』は、同じ昭和2年の10月に出た、玉川大学さんの創立者・小原國芳の編刊です。おそらく光太郎の許諾を得て、『全人』から『ベートーヴェン研究』へ転載されたのでしょう。挟まっていたという詩稿は、その転載の際に改めて書き送ったか、『全人』掲載時に送られたか、いずれにしても玉川さんの関係者の旧蔵だったという可能性が高いと思われます。

全く別の可能性として、「二つに裂かれたベエトオフエン」は、昭和4年(1929)に新潮社さんから刊行された『現代詩人全集第9巻』にも転載されており、同書は光太郎自身が掲載詩を選択していますので、そちらからの流出ということも考えられなくはありません。ただし、『現代詩人全集第9巻』掲載時には、サブタイトル的な「(幻想スケツチ)」の語が除かれているので、やはりこの詩稿は昭和2年(1927)のものである可能性が高いと考えられます。

こういうこともあるのですね。


ちなみに、「二つに裂かれたベエトオフエン」、全文は以下の通りです。


      二つに裂かれたベエトオフエン
005
 「病める小鳥」のやうにふくらがつて
 まろくじつとしてゐた彼は急に立つた。
 甥に苦しめられる憂鬱から、
 一週間も森へゆかなかつたのに驚いた。
 春がもうヴイインの空へやつて来て、
 さつき窓から彼をのぞき込んだ。
 水のせせらぎが何を彼に話しかけ、
 草の新芽がどんな新曲を持つて来たか、
 もう約束が分つたやうでもあり、
 また思ひも寄らないやうでもあり、
 いきなり家を飛び出さうとした彼は、
 ドアを明けると立ち止つた。
 今日はお祭、
 着かざつた町の人達でそこらが一ぱい。
 ベエトオフエンは靴をみた。
 靴の割れ目を見た。

 一時間も部屋を歩いたが怒は止まない。
 怒の当体の無い怒、
 仕方が無いので昔は人と喧嘩した。
 「私は世界に唯一人だ」と006
 いつかも手帳に書いてみた。
 彼は憤然として紙をとる。
 怒の底から出て来たのは、
 震へる手で書いてゐるのは、
 おゝ、何のテエマ。
 怒れる彼に落ちて来たのは、
 歓喜のテエマ。
 彼は二つに引き裂かれて存在を失ひ、
 今こそあの超自然な静けさが忍んで来た。
 オオケストラをぱたりと沈黙させる神の智慧が、
 またあの窓から来たのである。


別件ですが、光太郎自筆原稿というと、先月、こういうこともありました。

ネットオークションで光太郎の自筆原稿一枚が売りに出たのです。こちらは詩稿ではなく評論で、題は「神護寺金堂の薬師如来」。驚愕しました。それがいわば「ミッシングリンク」だったためです。

これは、昭和17年(1942)の7月から12月にかけ、雑誌『婦人公論』に連載された「日本美の源泉」の第4回の冒頭に当たります。連載終了後、同誌の編集者だった栗本和夫が、光太郎から送られてきた原稿34枚を和綴じに仕立て、保存していました。昭和47年(1972)には、中央公論美術出版さんが、それをそのまま復刻し、限定300部・定価15,000円で刊行しました。

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当会顧問・北川太一先生による同書の別冊解説から。

 結局三月(注・昭和19年=1944)から『婦人公論』は休刊、七月には「営業方針において戦時下国民の思想善導上許しがたい事実がある」として、中央公論社は改造社とともに情報局から自発的廃業を申し渡される。
 残務整理を担当するために残った栗本の仕事の一つに原稿処分のことがあった。永年の雑誌原稿は1ヶ月ごとに袋に収めて丁寧に保存されていたが、ひろげるとうず高く、八畳間いっぱいをこえる夥しい量であったという。原稿の散佚することをふせぐために、しかも、旧稿が目に触れてすら、危機が著者にも編集者にも及びかねないそんな情況の中で、栗本は朝から夕まで一週間にわたってそれらを破棄し続けた。
 しかし、どうしても破り捨てることの出来ない幾つかの草稿が栗本にはあった。その一つが光太郎の「日本美の源泉」である。くり返し探したけれど、どこで失われたのか、第四回の最初の一枚だけは、見つけることができなかった。

そこで、同書ではその1枚文だけ、掲載誌から起こした活字で埋めています。

その「ミッシングリンク」的な1枚が出て来たので、驚愕したのです。この1枚があれば、まさにコンプリートなわけで。旧蔵者は同じ中央公論社の湯川龍造という編集者だったそうで、他にも湯川旧蔵だった文豪の草稿類がごっそり売りに出され、その点でも驚愕しました。

こういうこともあるのですね。

それにしても、戦時中、中央公論社でこのような事態だったというのは、意外と言えば意外でした。もうすぐ平成も終わり、令和となりますが、こうした昭和の暗黒時代に戻るようなことがあってはいけないとつくづく思いました。しかし、「昭和」、「令和」の「和」つながりには、昭和の暗黒時代をこそ範としようとする現政権のどす黒い野望の如きものがほの見えるようで、素直に改元を喜べません。考えすぎでしょうか。


【折々のことば・光太郎】

もうネコヤナギの花が出るだらう。林の中のあの立派なコブシにも白い花が一めんにさくだらう。今、山の中の早春は清冽なにほひに満ちてゐる。

散文「早春の山の花」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

書かれた日付は3月25日。岩手の山間部では、3月末で早春という感覚なのですね。