昨日は愛車を駆り、日帰りで信州に行っておりました。2回に分けてレポートいたします。
まず、メインの目的であった、安曇野市の碌山美術館さん。光太郎の親友だった碌山荻原守衛を顕彰する個人美術館ですが、昨日が守衛の命日、「碌山忌」でして、いろいろと催しもあり、駆けつけた次第です。
平成25年(2013)の碌山忌にお伺いした際には雪が降り、一時吹雪いたりして驚きましたが、昨日はもう春爛漫という感じ。同じ吹雪でも桜の花吹雪でした。
守衛が亡くなったのは明治43年(1910)、昨日は第109回という扱いでした。
午後4時から墓参ということで、それに間に合うように行きましたが、少し早く着いたので、先週土曜から始まった企画展示「荻原守衛生誕140周年記念特別企画展 傑作《女》を見る」を拝見。会場は第二展示棟です。
直上の画像は、閉館後に許可を得て撮りました。
守衛の絶作にして、その石膏原型が近代彫刻として初めて重要文化財に指定された「女」(明治43年=1910)。同郷の先輩で、新宿中村屋さんの創業者・相馬愛蔵の妻だった良(黒光)の面影を遺しています。
同じく良との関わりが指摘される「文覚」(明治41年=1908)、「デスペア」(明治42年=1909)と合わせ、石膏複製3体が展示されています。周囲の壁とガラスケースにはそれらに関するパネル展示や、守衛自筆の構想スケッチ、光太郎から守衛宛の書簡など。実に興味深く拝見しました。
その後、現荻原家ご当主の荻原義重氏の車に乗せていただき、墓参。歩いて行くには遠い場所です。
太平洋画会で智恵子の師でもあった中村不折の揮毫による守衛墓碑に香華を手向けました。明治43年(1910)、守衛が亡くなった直後、関西旅行に行っていた光太郎も急ぎ墓参に訪れています。
荻原氏に相馬家(当時の建物が現存)なども案内していただき、再び館へ。
午後5時20分から、武井敏学芸員による研究発表。
題して「『荻原守衛日記・論説集』の発刊と新発見」。こちらも興味深く拝聴しました。メインは昨秋、同館から刊行された『荻原守衛日記・論説集』を編んでみて、改めて見えてきた守衛像、的なお話でした。
それから「おまけ」として、「Ogihara」と「Rokuzan」。一般には「荻原守衛」は、「おぎわらもりえ」と読んでしまっていますが、正しくは「おぎはら」だそうで、守衛がローマ字表記で書いた書簡などに、「Ogihara」と記されている実例が挙げられました。ところが、どこかで混乱が生じたようで、先述の義重氏、パスポートを申請する際に「おぎはら」と書いたところ、不可。なぜか住民票では「おぎわら」となっていたそうで。しかし正しくはあくまで「おぎはら」だとのこと。ただし、守衛自身も「Ogiwara」と署名している場合もあるそうですが。
それから、「Rokuzan」。「碌山」の号は、夏目漱石の小説「二百十日」(明治32年=1899)の登場人物「碌さん」から採られたものですが、となると、「ろくざん」ではなく「ろくさん」と読むべき、という説がありました。しかし、こちらも守衛留学中に買い求めた蔵書に「Rokuzan」の署名がみつかり、やはり「ろくざん」で良かったのだ、と確認できたとのこと。
くわしくは割愛しますが、実は「光(こう)太郎」、「智恵子」も本名ではありませんし、意外と名前はくせ者です。
研究発表終了後、懇親会的な「碌山を偲ぶ会」。
会場は木造ロッジ風のグズベリーハウス。永らく売店としても使われていましたが、売店機構は受付に移転し、こうした場合の集会所としての(平時は休憩コーナー的な)使用法になっています。
毎回恒例となりました、光太郎詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)の全員での朗読に始まり、同館元館長にして代表理事の所賛太氏のご挨拶、高野現館長による報告、そして碌山友の会会長・幅谷啓子さんの音頭で献杯。
その後、ほぼほぼ手作りのお料理をいただきながら、スピーチ。
いの一番に当方に振られてしまいました。で、同館には非常にお世話になっておりながら、経済的な部分での援助が出来ず(それをやってしまいますと、光太郎と関連する人物の顕彰団体等全てに平等にやらねばなりませんので)申し訳なく思っておりましたので、罪滅ぼしに下記を寄贈する旨、お話しさせていただきました。
昭和55年(1980)に発行された50円切手、「近代美術シリーズ第8集 荻原守衛 女」の関連です。
20枚つづりの1シートと、解説書。
それから、切手コレクターの方々が作成されたFDCとその解説書。「FDC」は「ファースト・デイズ・カバー」の略だとのことで、それぞれの切手と関連する図柄の封筒などを作成し、当該切手の発売日に郵便局の窓口で購入した切手を貼り、発行日の消印を押してもらうというものだそうです。当方、切手マニアではありませんので詳しいことはよくわかりません。間違っていたらごめんなさい(笑)。
同じ近代美術シリーズの第16集では、光太郎の父・光雲の「老猿」も取り上げられており、そちらを集めている中で、「守衛の「女」もあるんだ」というわけで、「では碌山美術館さんに寄贈しよう」と思い立ち、ネットオークションなどでコツコツ集めた次第です。
さっそくグズベリーハウス内に飾って下さいました。足を運ばれる方、ご覧下さい。
逆にいただきもの。
守衛と関わりの深かった新宿中村屋さんから。
開けてみると……
中村屋さん名物の一つ、月餅でしたが、通常のものではなく、碌山美術館さんの本館と、「女」をあしらった特別バージョン。平成27年(2015)、新宿の中村屋サロン美術館さんで、開館1周年記念に配られたものと同一のようです。
何だかもったいなくて食べられません(笑)。
午後8時を過ぎたところで、散会。愛車を駆って帰りました。
碌山美術館さんに参上する前に、長野市の善光寺さんに参拝してまいりましたので、明日はそちらをレポートいたします。
【折々のことば・光太郎】
人間として当りまへに行動しさへすれば、別に努力しなくともそんな不愉快な車中の空気を醸し出さずにすむはずなのだが、不思議に汽車の中では多くのプチブルが動物性を発揮して、平素の家庭生活の野蛮さを曝露し、お里の知れる振舞を平気でやるのを目撃せねばならなかつた。
散文「汽車ぎらひ宿屋ぎらひ」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳
「汽車ぎらひ宿屋ぎらひ」は光太郎自身の自称です。汽車そのものや旅行自体が嫌いというわけではなく、行く先々で眼にする人々のマナーの悪さが気になって、出不精になったというのです。
公共交通機関や安い宿で、傍若無人な振る舞いに閉口させられる、というのはまったく同感です。