昨日に引き続き、信州安曇野の碌山美術館さん関連で。
過日、同館から贈っていただいた『碌山美術館報 第39号』。
毎年、年度末に刊行される年刊ですが、毎号50ページを超える分厚いものです。今号は68ページもあります。ただ厚いというだけでなく、内容も充実。頭が下がります。
過去の号でもそうでしたが、同館が顕彰する碌山荻原守衛の親友だった光太郎、そして智恵子についても言及されています。
今号では、まず上記の表紙が守衛の代表作の一つ「坑夫」(明治40年=1907)の紹介。パリ留学中の習作で、これを見せられた光太郎が感銘を受け、ぜひ日本に持ち帰るように勧めた作品です。そうした経緯の説明が為されています。ご執筆は前館長の五十嵐久雄氏です。
それから同館の開館に奔走した荻原碌山研究委員会委員長 横沢正彦関連の記事で、昭和29年(1954)に東京芸術大学石井鶴三研究室から刊行された『彫刻家 荻原碌山』(光太郎が寄稿し、題字も揮毫)などに触れられています。
また、同館で昨秋行われた武井敏学芸員による美術講座「新しい女」の筆録。物心両面で守衛を助けた新宿中村屋創業者・相馬愛蔵の妻・黒光がメインですが、同じく明治から大正にかけに「新しい女」と称された平塚らいてう、伊藤野枝、松井須磨子らと並んで、智恵子についても詳しく言及されています。黒光や智恵子との関連で光太郎にも。
さらに、やはり昨秋の同館開館60周年記念行事の一環として開催された建築家・藤森照信氏によるご講演「碌山美術館の建築と建築家について」の筆録。講演で使われたスライドショーの図版も豊富に掲載されています。
ご入用の方は、同館まで。
【折々のことば・光太郎】
この小屋の中にはいろいろの有象無象が充満してゐますが、それらが消え去つたあとに、昔の人たちが出て来ていろいろ咡きます。最後に智恵子が出て来ます。食事の時でも執筆の時でも、僕はいつでも智恵子と二人ゐます。人間は死ねば普遍的になります。生きてゐる間は、対ひ合つてゐるだけの二人ですが、死ねばどこへでも現れます。
談話筆記「(今日はうららかな)」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳
戦後の7年間、逼塞していた花巻郊外旧太田村の山小屋。そこに現れる「昔の人たち」の幻影。その中にはかつての親友、碌山荻原守衛の姿もあったのではないでしょうか。