昨日の午前中、パリからショッキングなニュースが。 

ノートルダム大聖堂で火災 93mの塔が焼け落ちる

 フランスのパリ中心部にある世界的な観光名所、ノートルダム大聖堂で15日午後7時ごろ(現地時間)、火災が発生し、教会の尖塔(せんとう)などが燃え落ちるなどの甚大な被害が出た。仏メディアによると、当時は大規模な改修工事が行われており、その足場付近から出火した可能性があるという。
 AFP通信によると、消防当局は火災は午後6時50分ごろに発生したと説明。現場では、大気汚染で汚れた聖堂をきれいにするための改修工事が数カ月前から行われており、屋根に取り付けられた足場部分から燃え広がった可能性があるという。火は屋根付近を中心に瞬く間に燃え広がり、大聖堂は炎と煙に包まれ、出火から1時間後には、高さ93メートルの尖塔も焼け落ちた。出火から4時間たった午後11時も燃え続けている。同日夜、現場で記者会見したローラン・ヌニェス内務副大臣は、「ノートルダムを救えるのか、現時点では見通しが立たない」と語った。消防士数人が負傷したという。
 セーヌ川に挟まれたシテ島に立つノートルダム大聖堂は、12世紀に建造が始まり、改修や増築を繰り返した。1991年には周辺の歴史的建築物などとともにユネスコの世界文化遺産に登録された。年間1200万人が訪れるパリ屈指の観光名所として知られ、日本人観光客も多く訪れる。
(『朝日新聞』)

夕方の報道では鎮火とのことでしたが、人的被害を含め、どの程度の被害が出たのか、まだ詳しいところがよくわかりません。既報では、尖塔が焼けて崩れ落ちたり、消火に当たった消防士の方が重傷を負ったりということだそうですが、亡くなった方はいないことを祈ります。

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ノートルダム000大聖堂といえば、エッフェル塔や凱旋門などと並ぶパリのシンボルの一つ。のみならず、フランスの道路原標はここに設置されていて、まさにパリはここから発展した場所でもあります。明治41年(1908)から翌年にかけ、欧米留学でパリに滞在していた光太郎も足繁く通いました。

右は、明治41年(1908)8月、パリの光太郎が、パリに移る前に滞在していたロンドンでの留学仲間だった彫刻家の畑正吉に送った大聖堂の絵葉書です。焼け落ちたという尖塔はこの裏側になります。

よく見ると、下の方、歩いている人物は写真以外に光太郎が描き込んでいます。さらに「こんな形で歩いてるんでせう」の一言も書き添えられています。

下って大正10年(1921)、光太郎はパリ時代を回想し、復刊成った与謝野夫妻の『明星』に、110行にもわたる長大な詩を寄稿しました。題して「雨にうたるるカテドラル」。「カテドラル」は仏語の「cathedrale」、「大聖堂」を意味します。

ちなみにこの詩は、光太郎に遅れてパリに留学、というか住み着いた東京美術学校の同級生・藤田嗣治を主人公とした映画「FOUJITA」(平成27年=2015)で引用されました。

     雨にうたるるカテドラル

 おう又吹きつのるあめかぜ。
 外套の襟を立てて横しぶきのこの雨にぬれながら、
 あなたを見上げてゐるのはわたくしです。
 毎日一度はきつとここへ来るわたくしです。
 あの日本人です。
 けさ、
 夜明方から急にあれ出した恐ろしい嵐が、
 今巴里の果から果を吹きまくつてゐます。
 わたくしにはまだこの土地の方角が分かりません。
 イイル ド フランスに荒れ狂つてゐるこの嵐の顔がどちらを向いてゐるかさへ知りません。
 ただわたくしは今日も此処に立つて、
 ノオトルダム ド パリのカテドラル、
 あなたを見上げたいばかりにぬれて来ました、
 あなたにさはりたいばかりに、
 あなたの石のはだに人しれず接吻したいばかりに。
  
 おう又吹きつのるあめかぜ。
 もう朝のカフエの時刻だのに
 さつきポン ヌウフから見れば、
 セエヌ河の船は皆小狗のやうに河べりに繋がれたままです。
 秋の色にかがやく河岸(かし)の並木のやさしいプラタンの葉は、
 鷹に追はれた頬白の群のやう、
 きらきらぱらぱら飛びまよつてゐます。
 あなたのうしろのマロニエは、
 ひろげた枝のあたまをもまれるたびに
 むく鳥いろの葉を空に舞ひ上げます。
 逆に吹きおろす雨のしぶきでそれがまた
 矢のやうに広場の敷石につきあたつて砕けます。
 広場はいちめん、模様のやうに
 流れる銀の水と金茶焦茶の木の葉の小島とで一ぱいです。
 そして毛あなにひびく土砂降の音です。
 何かの吼える音きしむ音です。
 人間が声をひそめると
 巴里中の人間以外のものが一斉に声を合せて叫び出しました。
 外套に金いろのプラタンの葉を浴びながら
 わたくしはその中に立つてゐます。
 嵐はわたくしの国日本でもこのやうです。
 ただ聳え立つあなたの姿を見ないだけです。
    
 おうノオトルダム、ノオトルダム、
 岩のやうな山のやうな鷲のやうなうづくまる獅子のやうなカテドラル、
 灝気(かうき)の中の暗礁、
 巴里の角柱(かくちゆう)、
 目つぶしの雨のつぶてに密封され、
 平手打の風の息吹(いぶき)をまともにうけて、
 おう眼の前に聳え立つノオトルダム ド パリ、
 あなたを見上げてゐるのはわたくしです。
 あの日本人です。
 わたくしの心は今あなたを見て身ぶるひします。
 あなたのこの悲壮劇に似た姿を目にして、
 はるか遠くの国から来たわかものの胸はいつぱいです。
 何の故かまるで知らず心の高鳴りは
 空中の叫喚に声を合せてただをののくばかりに響きます。
  
 おう又吹きつのるあめかぜ。
 出来ることならあなたの存在を吹き消して
 もとの虚空(こくう)に返さうとするかのやうなこの天然四元のたけりやう。
 けぶつて燐光を発する雨の乱立(らんたつ)。
 あなたのいただきを斑らにかすめて飛ぶ雲の鱗。
 鐘楼の柱一本でもへし折らうと執念(しふね)くからみつく旋風のあふり。
 薔薇窓のダンテルにぶつけ、はじけ、ながれ、羽ばたく無数の小さな光つたエルフ。
 しぶきの間に見えかくれるあの高い建築べりのガルグイユのばけものだけが、
 飛びかはすエルフの群(むれ)を引きうけて、
 前足を上げ首をのばし、
 歯をむき出して燃える噴水の息をふきかけてゐます。
 不思議な石の聖徒の幾列は異様な手つきをして互にうなづき、
 横手の巨大な支壁(アルブウタン)はいつもながらの二の腕を見せてゐます。
 その斜めに弧線をゑがく幾本かの腕に
 おう何といふあめかぜの集中。
 ミサの日のオルグのとどろきを其処に聞きます。
 あのほそく高い尖塔のさきの鶏はどうしてゐるでせう。
 はためく水の幔まくが今は四方を張りつめました。
 その中にあなたは立つ。
  
 おう又吹きつのるあめかぜ。
 その中で
 八世紀間の重みにがつしりと立つカテドラル、
 昔の信ある人人の手で一つづつ積まれ刻まれた幾億の石のかたまり。
 真理と誠実との永遠への大足場。
 あなたはただ黙つて立つ、
 吹きあてる嵐の力のぢつと受けて立つ。
 あなたは天然の力の強さを知つてゐる、
 しかも大地のゆるがぬ限りあめかぜの跳梁に身をまかせる心の落着を持つてゐる。
 おう錆びた、雨にかがやく灰いろと鉄いろの石のはだ、
 それにさはるわたくしの手は
 まるでエスメラルダの白い手の甲にふれたかのやう。
 そのエスメラルダにつながる怪物
 嵐をよろこぶせむしのクワジモトがそこらのくりかたの蔭にに潜んでゐます。
 あの醜いむくろに盛られた正義の魂、
 堅靭な力、
 傷くる者、打つ者、非を行はうとする者、蔑視する者
 ましてけちな人の口(くち)の端(は)を黙つて背にうけ
 おのれを微塵にして神につかへる、
 おうあの怪物をあなたこそ生んだのです。
 せむしでない、奇怪でない、もつと明るいもつと日常のクワジモトが、
 あなたの荘厳なしかも掩ひかばふ母の愛に満ちたやさしい胸に育(はぐく)まれて、
 あれからどのくらゐ生れた事でせう。
   
 おう雨にうたるるカテドラル。
 息をついて吹きつのるあめかぜの急調に
 俄然とおろした一瞬の指揮棒、
 天空のすべての楽器は混乱して
 今そのまはりに旋回する乱舞曲。
 おうかかる時黙り返つて聳え立つカテドラル、
 嵐になやむ巴里の家家をぢつと見守るカテドラル、
 今此処で、
 あなたの角石(かどいし)に両手をあてて熱い頬(ほ)を
 あなたのはだにぴつたり寄せかけてゐる者をぶしつけとお思ひ下さいますな、
 酔へる者なるわたくしです。
 あの日本人です。


パリで伝統に裏打ちされた本物の芸術や、そこからさらに進んだ世界最先端の芸術に触れた光太郎。そこに限りない憧憬を抱きつつも、故国日本との目もくらむほどの落差を思い知らされ、打ちのめされました。そんな折には、ノートルダム大聖堂を訪れ、その石の肌に触れ、心を落ち着けたというのです。

もっとも、大聖堂あるいは焼け落ちたという尖塔に登った際には、進むべき道の困難さを感じての絶望に似た思いのあまり、幻覚に襲われたりもしていたようです。やはり留学仲間だった有島生馬の回想から。

 高村君はどうも神秘的な人で、吾々カムパーニユ街の仲間は「高村の神懸り」とあだ名をつけた。(略)時に姿を見せると、巴里の空を、ノトルダムの上から、飛べさうな気がした話や、セエヌ河が真つ赤な血を流してゐた話や、そんな神懸り的な事を真面目でぽつりぽつり云つた。

何はともあれ、光太郎にとって、パリといえば真っ先にノートルダム大聖堂。そこでの大規模火災ということで、胸が痛みますが、被害が壊滅的なものでないことを祈ります。


【折々のことば・光太郎】

煮え返るやうな若い時代の連中で毎日進んで行くといふやうな時代だから、二三日遭はないと何処かしら解らなくなつて了ふといふ風な毎日を送つてゐた。だから殆と毎日遭つてゐたと言つていい位顔を会せて議論したり描いたりしたものだ。あんな猛烈な時代といふものは尠いだらうと思ふ。

談話筆記「回想録 二」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

パリから帰って、岸田劉生、木村荘八らと結成したヒユウザン会(のちフユウザン会)時代の思い出です。