今日、4月2日は光太郎忌日・連翹忌です。午後5時30分からは、光太郎ゆかりの日比谷松本楼さんで、第63回連翹忌の集いを開催いたします。
63年前の今日、昭和31年(1956)4月2日、午前3時45分。中野桃園町の貸しアトリエで、巨星・高村光太郎は息を引き取りました。生涯、「冬」を愛した光太郎の最期を飾るかのように、前日から東京は季節外れの大雪だったそうです。その際に、アトリエの庭に咲いていた連翹、生前の光太郎がアトリエの持ち主の中西夫人に「何という花ですか」と尋ねたとのこと。そして「あれは「連翹」という花ですよ」との答えに「かわいらしい花ですね」。
4月4日、青山斎場で武者小路実篤を葬儀委員長として開かれた葬儀では、光太郎の棺の上に、その連翹の一枝が、愛用のコップに生けられて、置かれました。
当会の祖・草野心平をはじめ、遺された人々の胸にはその連翹の印象が強く残り、光太郎忌日は「連翹忌」と名付けられました。直接の発案は若い頃から光太郎に親炙していた佐藤春夫だったようです。
心平を助け、途中から連翹忌の運営を引き継いだのが、現・当会顧問の北川太一先生です。北川先生は晩年の光太郎に薫陶を受け、その歿後は『高村光太郎全集』をはじめ、光太郎の業績を後世に伝えるためのさまざまな書籍等を編著なさいました。今日の第63回連翹忌にもご参会下さる予定です。
その北川先生の最新刊、昨日、届きました。
光太郎ルーツそして吉本隆明ほか
2019年3月28日 北川太一著 文治堂書店 定価1,300円 光太郎詩の源泉
鷗外と光太郎 ―巨匠と生の狩人―
八一と光太郎 ―ひびきあう詩の心―
心平・規と光太郎
吉本隆明の『高村光太郎』 ―光太郎凝視―
究極の願望 吉本隆明(『高村光太郎選集』内容見本より)
造形世界への探針 北川太一 ( 〃 )
春秋社版・光太郎選集全六巻別巻一・概要
対談 高村光太郎と現代『選集』全六巻の刊行にあたって
吉本隆明 北川太一
隆明さんへの感謝
死なない吉本
しかも科学はいまだに暗く ――賢治・隆明・光太郎――
三つの「あとがき」抄
あとがきのごときもの
初出誌メモ
帯には北川先生と旧知の中村稔氏の推薦文。
高村光太郎の資料、情報の探索、蒐集、考証に心血を注いできた北川太一さんの文章はつねに含蓄と矜持に富んでいる。思想的立場は違っても、旧く親しい友人吉本隆明を語った文章も感興ふかい。推奨に値する書と言うべきであろう。
各種雑誌や、展覧会図録などに載った文章の再編ですが、初出誌が今では入手困難なものが多く、一冊にまとまっていることにありがたさが感じられます。当方、一部はパソコンで打ち込みをし、また、校閲をやらせていただいたので、今年初めには読みました。「そして吉本隆明」とあるとおり、戦前・戦時中の東京府立化学工業学校、戦後の新制東京工業大学で同窓だった故・吉本隆明氏について書かれた文章も含まれますが、吉本は吉本で日本で初めて光太郎論を一冊の本として上梓した人物。おのずとその筆は光太郎に無関係ではいられません。
いずれamazonさん等にアップされると存じます。また、今日の連翹忌会場で販売しますので、参会の方(おかげさまで75名のみなさんのお申し込みを賜りました)は、ぜひサインを書いていただき、家宝にしてほしいものです。
【折々のことば・光太郎】
私はこの世で智恵子にめぐりあつたため、彼女の純愛によつて清浄にされ、以前の廃頽生活から救い出される事が出来た経歴を持つて居り、私の精神は一にかかつて彼女の存在そのものの上にあつたので、智恵子の死による精神的打撃は実に烈しく、一時は自己の芸術的製作さへ其の目標を失つたやうな空虚感にとりつかれた幾箇月かを過した。
散文「智恵子の半生」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳
昨日も同じ「智恵子の半生」から引用しましたが、数ある光太郎エッセイの中でも、圧巻の一つゆえ、あしからずご了承ください。
男女の相違はあれど、光太郎を敬愛していた人々――上記にも名前を出した草野心平、佐藤春夫、そして北川先生などなど、みなさん、63年前の今日には、光太郎に対して同じような感懐を抱いたのではないかと存じます。