昨日は都内に出ておりまして、3件、用事を片付けて来ました。品川→六本木→上野と。いったん千葉の自宅兼事務所に帰り、今日また吉祥寺に参ります。都内に泊まってしまえば時間的、体力的に楽なのですが、家のこともいろいろやらねばならず……。というわけで、4回連続で(突発的な何かがなければ、ですが)都内レポートを。

まず、品川区大井町。昨年、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と花巻電鉄」の際に、光太郎が暮らした昭和20年代の花巻町とその周辺をイメージしたジオラマを制作して下さった、石井彰英氏のお宅。マンションの屋上に造られたプレハブ的な建物(そのままずばり「サロン ルーフトップ」)でジオラマ制作をなさいましたが、現在はミュージシャンでもあらせられる石井氏、そこでライヴ活動などもなさっています。

で、きたる4月2日(火、日比谷公園松本楼さん開催第63回連イメージ 1翹忌で、石井氏とお仲間の方々に、アトラクションとして音楽演奏をお願いしまして、快諾を得、その打ち合わせ兼練習風景を見学させていただきました。

バンドメンバーは、アコースティックギター/ヴォーカルで石井氏、アコーディオンを堀晃枝さん、もうお一方ヴォーカルに松元邦子さん。松元さんは、石井氏が自作のジオラマを撮影して作られたDVDで、ナレーションを担当して下さった方です。堀さんもBGMで参加されています。

3曲演奏して下さるとのことで、まずDVDにも収録されている石井氏作詞作曲の「トパーズ 高村智恵子に捧ぐ」。元々石井氏、智恵子終焉の地であるゼームス坂病院跡地(現在、光太郎詩「レモン哀歌」の詩碑が建っています)の近くにお住まいであることから、昔の大井町のジオラマを作られた中でゼームス坂病院も取り上げて下さり、それがそもそものきっかけで知遇を得た次第です。


他に、「星の王子様」。


そして「ずっとこのままま」。


それぞれ練習風景も拝見。すばらしかったです。

当方、昔、クイーンのジョン・ディーコンに憧れてベースギターを弾いていまして、サロンルーフトップ内にベースギターも立てかけてあり、それを見て「うずっ」と来たのですが、もう何年も手にしていませんし、フレットのどこが何の音だったかも忘れています(笑)。手に取って弾き始めれば思い出すのでしょうが、そのレベルで参加させて下さいとはとても言えず、黙って聴いていました。ただ、三曲目「ずっとこのまま」では、最後に聴衆を巻き込んでサビの部分を「皆さんご一緒に!」とするそうで、その際にはマイクを握ることになるかと存じます。

閑話休題。そういうわけで石井氏とお仲間の演奏で、連翹忌に花を添えていただきます。また、それとは別に、昨秋、智恵子の故郷・福島二本松で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」で大賞に輝いた宮尾壽里子さんとやはりお仲間の方々に、朗読もお願いしております。

【折々のことば・光太郎】

この橋は帝都の川から海に通ずる関門である。その海は京浜運河によつて横浜につながり、横浜から太平洋につながる。この橋は帝都の中心が太平洋に通ずる船の途(みち)の要害にあたる。太平洋の波必ずしも太平ならざる時、その開閉を司どるこの橋は何かの象徴のやうだ。

散文「鬨の渡し」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

この年に完成した勝鬨橋についてのエッセイの一節です。かつて開閉式の可動橋だったこの橋に、当時の微妙な対米関係をオーバーラップさせています。

智恵子没して1年余り。その心の空隙を埋めるかのように、かつて極力関わりを避けていた世間一般との交流を積極的に行うようになってきた光太郎。そうでもしないと自分も心を病むかもしれないという危機感があったのかもしれません。しかし、その世間はどんどん泥沼の戦時色に染め上げられていく真っ最中でした。昭和12年(1937)に始まった日中戦争は膠着状態、それを打開すべく、同16年(1941)には太平洋戦争開戦。そうした中で、光太郎は大政翼賛会中央協力会議の委員に推され、さらに日本文学報国会詩部会長などの任に付くことになります。そうなって行く素地が既に見える文章ですね。