昨日に引き続き、3月9日(土)、NHK BSプレミアムさんで放映されるドラマ「女川いのちの坂道」関連で。

本日発売の、『NHKステラ』さんに、紹介記事が載りました。

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もう少し大きく取り上げられるかなと思っていましたが、そうでもなく……。

しかし、ラジオを含めて、他にも東日本大震災がらみの番組がたくさん放送されるとのことで、それらの紹介がたくさん載っていました。出来る限り視聴しようと思いました。

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『NHKステラ』さん、定価300円です。ぜひお買い求め下さい。


民放さんでもこの時期、通常の報道番組中で東日本大震災がらみのコーナーを付くって下さったりしているようで、「女川いのちの坂道」で重要なモチーフとなる「いのちの石碑」について、テレビ朝日さんが取り上げて下さいました。取り上げられるという情報を得られませんで、見逃しましたが、昨日の「ワイドスクランブル」、それから今朝の「グッド!モーニング」中の「池上彰のニュース大辞典」で紹介されたとのことでした。

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また、「ザ・テレビジョン」さんのサイトには、「女川いのちの坂道」主演の平祐奈さんのインタビュー。

■ 平祐奈が東日本大震災当時の心境を語る

――東日本大震災当時、平さんは小学6年生。このドラマの主人公・咲と同い年なんですね
当時のことは、今でも覚えています。あの日は東京にいたのですが学校がちょうどお休みで、のどの調子も悪くて母と病院に行っていました。待合室で待っていたら最初は観葉植物がゆらゆら揺れて、立ち上がろうと思った瞬間に大きく揺れました。その後はどうやって1階まで降りよう、どうやって避難しようかと不安でしたね。
 地面にひびが入るのも初めて見ましたし、帰ったら家の中は誰かが入ったんじゃないかってくらい散乱していて。私は大人になれないのかも、と思うくらい怖かったです。未来が見えない感じで…。でも母と一緒だったので、すごく安心できたのを覚えています。
――当時の東日本の映像はニュースなどでご覧になっていましたか?
 衝撃的でした。私は家でテレビを見ている一方で、何で東北はこんなことになっているんだろうと。同じ時間に同じ日本にいるとは思えなかったです。
――今回は被害が大きかった女川で撮影されたんですよね?
2018年の9月に、女川にお邪魔させていただき撮影しました。女川はキレイに整備された所もありますが、海側はまだあのころのままだったり、整地したけれどそのままで何もなかったりと、7年半経ってもこんな状況なんだと思う部分と、7年半経ってやっとこうなったんだと思う部分があって、複雑な気持ちになりました。
でも今、女川で暮らしている人はそういういろんな思いを乗り越えて笑顔でいる。私たちも撮影終わりに地元のお店に行ったのですが、みなさんすごく温かったんです。明るくて気さくで。そんな姿を見ていたら、この方たちだから乗り越えられたんだなと思いました。
――モデルとなった「女川1000年後の命を守る会」の存在は知っていましたか?
 恥ずかしながら今回のドラマを通して知ったのですが、私と同い年の方がやっていることにも驚きましたね。小学6年生の時に被災して、中学生でこのプロジェクトを考える…。私にはない発想で本当に素晴らしいと思います。
 私が何かできることがあるかな?と考えた時、この活動をもっと全国に広めたいと思いました。この作品に出られたことが、いいきかっけになればいいと思います。

――色々と考えることも多かった作品だと思いますが、視聴者の方にメッセージをお願いいたします。
このドラマは、本当に多くの方に見ていただきたい作品。「女川1000年後の命を守る会」のことを知ってもらいたいし、今の女川も見てもらいたい。そして(登場する)色んな方の言葉の重みを、感じとっていただきたいです。
 被災された方にも、もちろん見てもらいたいですが、特に私と同世代の方にこそ見てもらいたいです。咲のセリフでもありましたが、8年経って「関心がない人が多くなってきている」現状もあると思います。今まで考えてこなかったことを、考えるきっかけにしていただければいいなと思います。


何度も書いていますが、かつて女川町に建っていた、昭和6年(1931)の光太郎の女川来訪を記念する「高村光太郎文学碑」――東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられたもの――の精神を受け継ぎ、費用全額を寄付で集めた「いのちの石碑」をめぐる実話を元にしたドラマ。ぜひご覧下さい。


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【折々のことば・光太郎】

生来夏に弱い体質ではあるが昨年ばかりはまるで為事が出来なかつた。為事をしたいと思ふ程なほさら虚脱を感じて意気をするのも厭に思へた。それで思ひきつて昼間は遊ぶ事、夜は読書だけといふ事にした。何も為ないと決心するといくらか楽な気持ちになつて少しは動けた。

散文「蟻と遊ぶ」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

この文章が発表された3カ月後、心を病んで南品川ゼームス坂病院に入院していた智恵子が亡くなります。直接の死因は肺結核でしたが、入院生活は昭和10年(1935)からのことで、その間、快方に向かうことのなかった智恵子を目の当たりにし続け、光太郎も精神的に疲弊していったように思われます。実際、夏の暑さに弱かった光太郎ですが、どうもそれだけでなく、抑鬱状態にあったようにも思えます。