3件、ご紹介します。

まず、1月11日(金)の『読売』新聞さん夕刊一面コラム。 

よみうり寸評

背筋が伸びて、表情もきりりと締まる。そんな佇(たたず)まいを表現するのに凛(りん)という字をよく使う。辞書を引いていて、この語に「寒気の厳しいさまの意味もあることを知った◆りりしさと凍りつくような冷たさと。今の季節に両方を感じていたのだろう。高村光太郎である。〈新年が冬来るのはいい〉。その名も「冬」と題する詩は冒頭からそう言い切る◆〈雪と霙と氷と霜と、/かかる極寒の一族に滅菌され、/ねがはくは新しい世代といふに値する/清潔な風を天から吸はう〉。詩の趣旨に沿う年初となったといえようか。暖冬といわれながらも、この一両日あたりは各地で冷え込み、東京都心では2日続けて氷点下の気温が観測された◆例年、正月のあとにはインフルエンザの流行のピークが控える。今週の厚生労働省の発表によれば、患者数はすでに注意報のレベルを超えた◆〈極寒の一族〉による〈滅菌〉に、比喩以外の意味は無論ない。こまめな手洗いなどでウイルスの感染を防ぎ、凛として寒い時期を乗り切りたい。

ちなみに『読売』さんでは、文中の「霙」に「あられ」とルビを振っていますが、この字は「みぞれ」です。「あられ」は雨かんむりに「散」で「霰」。念のため、『高村光太郎全集』を確認してみましたが、ここにルビはありませんでした。『読売』さんで、読者のためを思ってルビを振ったのでしょうが、残念ながら間違っています。このコラムを読み、光太郎が間違ったのかと思った方がもしいらしたら、そうではありませんのでよろしく。

続いて1月17日(木)の『朝日新聞』さん岩手版。花巻高村光太郎記念館さんで開催中の平成30年度花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~「光太郎の食卓」を紹介して下さいました。 

岩手)高村光太郎の食卓たどる企画展 花巻

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883―1956)の食生活に焦点をあてた企画展「光太郎の食卓」が、岩手県花巻市太田の高村光太郎記念館で開かれている。2月25日まで。
 留学で欧米に渡った光太郎は、新しい食文化に触れ、オートミールやコーヒーを好んだ。妻の智恵子に先立たれた後、1945年、戦禍を逃れて花巻市の山荘に移住した後も、自家菜園で野菜を育て、知人が差し入れた肉や乳製品を食べていた。菜園のキャベツを酢漬けにした「シュークルート」などもたびたび食卓に上っていたという。
 企画展では、光太郎の山荘に残されていたまな板やフライパン、バター入れなどの調理道具とともに、光太郎が書いた回想や随筆などをパネル展示し、生涯にわたる食生活と創作の関わりを探っている。宮沢賢治の農民に寄り添う姿を敬いつつ「雨ニモマケズ」に記した一日玄米4合の食が「彼の命数を縮めた」として、牛乳飲用などを勧める随筆「玄米四合の問題」なども紹介している。(溝口太郎)
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同じ『朝日新聞』さんの福島版では、1月19日(土)に以下の記事も。 

福島)詩人・草野天平の生涯、寄り添った妻通して 地域誌編集人が著書

 いわき市出身でカエルの詩人として著名な草野心平。その7歳下の弟、天平も詩人として詩作に励んだ。世俗を離れ、身を削るようにして詩を書き、42歳で亡くなった詩人とその家族の歩みとは――。いわき市で地域誌「日々の新聞」を発行する編集人、安竜昌弘さん(65)が「いつくしみ深き 草野天平 梅乃 杏平の歳月」を出版した。
 多彩で数多くの詩を残し、宮沢賢治を世に知らせるなど文学史に残る活躍をみせた心平(1903~88)。一方、天平(1910~52)は、東京・銀座で喫茶店を営んだり、出版社に勤めたりした後、31歳ごろから詩作を始め、37歳の時の「ひとつの道」が生前唯一の詩集となった。
 晩年は比叡山の寺にこもり、詩作に励んだ。貧しい生活の中で肺を病み、42歳で世を去った。
 天平は、詩を完成させるのに短くて半年、長くて1,2年かけたという。残された詩は静謐(せいひつ)で言葉がゆっくりと染みこんでくる。
 その業績を後の世に伝えたのが、妻の梅乃(1921~2006)だった。
 東京で国語教員などをしていた梅乃は、天平を師と仰ぎ、比叡山の天平を訪ねた。やがて前の夫と別れ、天平と結婚して最晩年の1年8カ月を共に過ごした。
 天平亡き後、詩作ノートなどを読み込み、詩集を出すことに心血を注ぐ。没後6年の1958年に「定本 草野天平詩集」を出版し、第2回高村光太郎賞を受賞した。
 生前の梅乃と交流があった安竜さんは「天平が世に知られたのは、梅乃さんがいたからだ」という。今回の著書では、天平の業績だけでなく、寄り添った梅乃のことも詳しく記した。
 生涯をかけて天平を伝え続けた梅乃も亡くなった。梅乃の13回忌の18年7月、天平だけでなく、梅乃や息子・杏平のことも書き記したいと著書にまとめた。
 「天平は自由な精神を持ち、平和を願い続けた。天平の詩をひもとき、その精神に触れてほしい」
 いわき市平の日々の新聞社1階には、詩人ゆかりの資料などを集めた「草野天平・梅乃メモリアルルーム」がある。同市小川町の草野心平記念文学館では1月から「天平と妻梅乃」を3月24日までスポット展示している。「いつくしみ深き」は2千円(税別)。問い合わせは、日々の新聞社(0246・21・4881)へ。

当会の祖・草野心平の弟にして、やはり詩人だった草野天平。光太郎と天平は、直接の面識はなかったようですが、妻の梅乃は、最晩年の光太郎が暮らしていた中野区桃園町のアトリエを訪れるなどしています。子息・杏平氏は以前の連翹忌にもご参加下さり、今年も年賀状をいただきました。

草野心平記念文学館さんでは、光太郎にも触れる冬の企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」が開催中ですので、記事にあるスポット展示も拝見してこようと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

この項、明日も続けます。


【折々のことば・光太郎】

一般人事の究極は、すべて無駄なものを脱ぎすて枝葉のばかばかしさを洗ひ落し、結局比例の一点に進んではじめて此世に公明な存在の確立を得るものと考へてゐる。比例は無限に洗練され、無限に発見される。比例を脱した比例が又生まれる。人はさうして遠い未来に向つて蝉脱を重ねる。

散文「装幀について」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳
 
書物の装幀には比例の美が必要だという話から、装幀に限らず万事そうであるという、この一節につながっています。その言は文化芸術にとどまらず、生活習慣までそうであるというところに落ち着きます。