昨日は埼玉県東松山市で、市民講座の講師を仰せつかっていました。題して高田博厚、田口弘、高村光太郎 東松山に輝いたオリオンの三つ星」。

同市の元教育長で戦時中から光太郎と交流があった故・田口弘氏、光太郎が最も高く評価した同時代の日本人彫刻家にして、光太郎つながりで田口氏と交流があった高田博厚、そして光太郎、この3人が、さながらオリオン座の3つ星のごとく、東松山に大きな芸術文化の花を咲かせた、的なお話をさせていただきました。

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明治16年(1883)、東京に生まれた光太郎。父・光雲の跡を継ぐべく、東京美術学校に入学、3年半の海外留学を経て帰国。ロダンをはじめとする最先端の芸術を目の当たりにし、これこそ自分の道と思い定め、日本彫刻界と訣別します。その決意を「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」(「道程」大正3年=1914)と高らかに宣言するなど、詩にも開眼。画家志望の長沼智恵子と共棲生活に入ります。

そんな時期に、絵を志していた高田と知り合い、たちまちその才を見抜きます。高田は光太郎の影響もあり、彫刻に転じ、ともに芸術精進。さらに人道主義者ロマン・ロランの顕彰などでも手を携えました。

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光太郎は高田の著書(ロマン・ロラン翻訳)の刊行に骨折ったり、装丁を手がけたり、高田と共に雑誌を立ち上げたりしました。

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光太郎と高田が一緒に写った、確認できている唯一の写真がこちら。大正15年(1926)に来日したシャルル・ヴィルドラック(ロマン・ロランの友人)の歓迎会での一コマです。

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その後、共産主義に傾き、当時非合法だった共産党員をかくまったかどで高田は逮捕。そんなこんなで日本に居づらくなった高田は渡仏を決意。光太郎はその援助にも奔走しました。

2通のみ現存が確認されている光太郎から高田宛の書簡は、ともに高田の渡仏直後に送られたものでした。

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やがて智恵子の心の病が顕在化。昭和13年(1938)には、肺結核のため亡くなります。その頃、旧制中学の生徒だった田口氏は、師で俳人、光太郎とも交流があった柳田知常の影響で、光太郎に心酔しはじめました。

日中戦争、太平洋戦争と進む中で、三人三様に苦しい日々を送ります。高田はパリを占領したナチスドイツによりベルリンに移送。田口氏は師範学校卒業後、南方の日本語学校に赴任のため出征(その前に柳田の仲介で光太郎に会いました)し、乗っていた輸送船が撃沈されて九死に一生を得、光太郎は戦意高揚の詩文を大量に書く羽目になり、昭和20年(1945)には空襲で東京を焼け出され、花巻の宮沢賢治の実家へ疎開……。

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やがて終戦。高田はソヴィエトに保護され、パリへ戻ることができ、田口氏は捕虜となったものの復員。そして光太郎は戦時の翼賛活動を恥じて、花巻郊外太田村の山小屋で蟄居生活を始めます。

昭和22年(1947)と同24年(1949)には、田口氏が太田村に光太郎を訪ね、中央公論社版の『高村光太郎選集』全6巻のために、当会の祖・草野心平に資料提供。光太郎は最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、昭和27年(1952)に上京、同31年(1956)に亡くなりました。田口氏はその葬儀に参列しました。

ちなみに「乙女の像」といえば、同時代の若手彫刻家たちは、この像をさんざんにけなしましたが、一人高田のみは、傑作とは言い難いとしながらも、その大自然との調和のあり方をたたえています。結局、けなした彫刻家たちの名は現代では忘れられつつあり、高田の名は残っているわけで、見る目のない者とある者の差異はこういうところにも現れるのでしょう。

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高田は光太郎の没した翌年、帰国。以後、様々な分野で光太郎顕彰に骨折ってくれました。10回限定で行われた、造形と詩、二部門の高村光太郎賞選考委員を務めたり、光太郎の胸像を制作したりなど。

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昭和40年(1965)の第9回連翹忌で、高田と田口氏が初めて出会ったようです。昭和51年(1976)に東松山市の教育長に就任された田口氏は、光太郎顕彰(各地での講演、市内新宿小学校さんに光太郎碑を設置など)の傍ら、高田の彫刻にも魅せられ、同市での高田展や、東武東上線高坂駅前に高田の彫刻群を配した彫刻プロムナードの設立に奔走しました。高田もそれに応え、同市での講演なども行っています。

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田口氏のもう一つの大きな業績、日本最大のウォーキング大会・日本スリーデーマーチの同市での開催にも、光太郎の「歩くうた」(昭和15年=1940)の精神の具現化という意味合いもありました。

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高田は昭和62年(1987)に没。その後も田口氏は光太郎、高田の顕彰に努めます。

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94歳になられた平成28年(2016)には、光太郎から贈られた書や署名本、書簡などを同市に寄贈されました。同年、その展示が市立図書館さんで行われ、関連行事として氏自ら生前最後のご講演。翌年には逝去されました。氏の没後、寄贈された資料は、やはり市立図書館さんに「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」が設置され、無料で公開されています。

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田口氏の亡くなった一昨年、鎌倉にあった高田のアトリエの閉鎖に伴い、アトリエにあった彫刻その他も同市に寄贈されています。昨年には、それらを展示する企画展も開催されました。これらも氏のご遺徳の賜ですね。

こういったお話をさせていただきました。

来年は高田の生誕120周年となりますし、今後とも同市では、高田、そして田口氏や光太郎の顕彰に力を注いで下さるそうです。当方、高田に関しては余り詳しいお話をできないもので、今後は高田に通じている方のお話などの機会を設けていただきたいと存じます。

高坂駅前の「彫刻プロムナード」、市立図書館さんの「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

除去したい記念像や噴水や建築や壁画の類は東京の街上だけにも沢山ある。今後も続々出来る事だらう。之を取締まる方法は無いか。十分信頼すべき鑑査制度を編み出してくれる頭脳は無いか。全国の自治機関は今の内に此事を何とか始末せねばなるまい。

散文「公共記念碑的作品の審美的取締」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

愚劣かつ醜悪なモニュメントが乱立していた当時の東京に対する苦言です。

田口氏も、おそらくこの文章を目にされた上で、高田の彫刻なら大丈夫と、彫刻プロムナードの設立を決意されたのでしょう。炯眼とはまさにこのことですね。