今月に入ってからの、新聞各紙等から。

日付順に、まず、1月1日(火)の『産経新聞』さん。 

産経抄

 慶応4(1868)年の元日の江戸は快晴だったらしい。まもなく鳥羽、伏見で旧幕府軍と新政府軍の戦闘が始まる。7月には江戸が東京と改称され、9月には明治と改元、つまりこの年は明治元年となる。
▼もっとも、いつもの年と同じ正月気分にひたる江戸の庶民には、歴史の大きな変わり目に直面している自覚はまったくない。後に上野恩賜公園に立つ西郷隆盛像の作者となる彫刻家、高村光雲もその一人だった。当時は、仏師をめざす修行中の若者である。
▼「町人などは呑ん気なもので、朝湯などで、流し場へ足をなげ出して、手拭(てぬぐい)を頭の上にのせながら、『近い中に公方様と天朝様との戦争があるんだってなァ』というような話でも仕合う位のものである」。昭和2年から翌年にかけて新聞連載された「戊辰物語」に、こんな懐旧談を寄せている
▼幸いにも平成31年の元旦を迎えたわれわれは、今年5月に改元され、あたらしい御代を迎えることを知らされている。とはいえ、世界は激動の最中にある。天地がひっくり返るような出来事が、いつ起こってもおかしくない。ぼんやりとした不安をかかえながらも、なすすべがないという点では、江戸の庶民と大きな違いはない
▼明治に入ると廃仏毀釈(きしゃく)の嵐が吹き荒れ、仏像は破壊の対象となる。光雲は仏師の仕事を失い、苦しい生活を強いられた。それでも逆境に屈することなく、西洋美術の技法を学び、伝統的な木彫の復活に成功する。作品は海外の万博で評判を呼び、多くの弟子を育てた。大正、昭和を生き抜き82年の生涯を終える
▼どんな変革の波が押し寄せようと、時に大きな犠牲を払いながらも、したたかに乗り越えてきた。そんな先人のたくましさを今こそ、見習いたい。


続いて、1月4日(金)で、『毎日新聞』さんの東京多摩版。 

<平成歌物語>東京の30年をたどる/3 変わらぬ「上京の志」 音楽評論家・富澤一誠さん(67) /東京

 音楽評論家として半世紀近いキャリアを持つ富澤一誠さん(67)に「東京をうたった平成の歌」で印象に残る作品を聞いてみた。興味深い答えが返ってきた。福山雅治さん(49)の「東京にもあったんだ」??。
 富澤さんは長野県須坂市出身。なぜ、長崎県出身の福山さんの歌にひかれたのか。
    ◇
 1970年、東京大学に入学するため上京した富澤さんは、1年の時に歌手を目指して歌謡学校に入学したが、早々に挫折。ラジオで聞いた作詩家、なかにし礼さん(80)の「作詞ほど簡単にもうかる商売はない」という内容の言葉に希望を見いだし、作詞家を目指す。岡林信康の「私たちの望むものは」の歌詞に衝撃を受けてフォークの歌詞を書き、演歌の作詞を教えていた先生と対立した。東京でもがく当時の地方出身の若者そのものだった。
    ◇
 翌71年秋、音楽雑誌に投稿したことが、音楽評論家としてのデビューとなった。デビュー作は、歌詞に衝撃を受けたはずの岡林への批判。その年の8月「俺らいちぬけた」を発表し、岐阜県の山村に移住した岡林について、富澤さんはこう書いた。「生きていることを身をもって知るのは、対人関係において、複雑な社会機構を基盤に考えてこそ人間らしさを問いうるのでは」
 複雑な社会機構??東京だ。
 「我々の頃は、マイ・ペースが歌った『東京』のように、東京は花の都。私は田舎者だから東京に勝手なイメージを抱き『都会っていいね』という思いがあった。田舎へ戻ろうとは思わなかった」
    ◇
 富澤さんは自分の人生を、平成の時代に活躍する福山さんに重ねる。シンガー・ソングライターを夢見ていた福山さんは、高校卒業後に一度は地元の会社に就職したが、夢を諦めきれず上京した。
 その福山さんに2000年ごろ、富澤さんはインタビューした。「東京」について、福山さんはこう語ったという。
 「東京は何かやりたい人にとって、実現できる街、チャンスがどこかにある街。志を持って、何か変わりたいと思って東京に来ると、変われる気がする」
 東京にもあったんだ こんなキレイな夕陽(ゆうひ)が
 「高村光太郎の『智恵子抄』に『智恵子は東京に空が無いといふ ほんとの空が見たいといふ』とあるように、長崎出身の福山さんは、東京を『四角い空』だと思っていたのでは。東京にはきれいな夕陽がない、と思っていた福山さんが、それを発見して歌詞にしたのだと思う」
 「東京にもあったんだ」について、富澤さんはこう解説した。
    ◇
 「いつの日か『東京』で夢叶(ゆめかな)え ぼくは君のことを迎えにゆく」と歌った関西出身のシャ乱Q「上・京・物・語」、「東京は怖いって言ってた」と歌った福岡出身のYUI「TOKYO」。「東京の街に住んで大人になってたって」(「東京」)と歌ったケツメイシは、リーダーが神戸市出身だ。富澤さんは言う。
 「昭和の時代、甲斐バンドや長渕剛は九州から上京し、東京で一旗揚げようと『東京』を歌った。平成になっても、地方出身者が東京を歌う心は変わらない。新時代も、東京の歌は地方出身者が歌っていくことになるかもしれないね」


さらに、1月11日(金)、『朝日新聞』さんの夕刊。 

(危機の時代の詩をたどって:5)同調圧力、戦時中に重ねて

 昨年、若手を代表する詩人の一人、山田亮太(36)は詩「報国」を発表した。
 〈借りもののわれら順次熱狂の状態へ推移する〉〈のっぴきならぬ空気をつくりあげ世界を一つの家にする〉
 自分が戦時下に置かれたらという想定で書いた。「異常時には主体が巨大化し、国家を背負ってしまう。そんなさまを描きつつ、批評性を残すことで異常事態に対抗したいと考えた」。熱狂にひたる快感と共に皮肉めいた雰囲気がにじむのは、批評性ゆえだ。
 山田は、小熊秀雄賞に選ばれた2016年の詩集「オバマ・グーグル」にも、「戦意昂揚(こうよう)詩」と題した詩を収録している。〈きみは決断する/絶対に正しいものも絶対に/信じられる悪もないから〉〈きみひとりの戦争だから〉
 このときは、国家という存在を前に出すより、「きみ」という個人に呼びかける方が戦意高揚で効果的と考えた。
 だが、2年がたち、国家をもっと意識せざるをえなくなった。昨春には国会での証人喚問でどれほど追及されても淡々と答弁する財務官僚の姿に「機械のような完璧さ」を感じた。「国家が制御不能なほどに巨大化しているのに、それに巧みに適応している人間の方が格好良く見える。そんな空気を感じる」

000 詩人の鈴木一平(27)も昨年、戦時下を想定した詩を発表した。その題は「高村光太郎日記」。戦争賛美の詩で批判された高村光太郎(1883~1956)の詩句を引用して一編の詩を作った。なぜ高村の言葉を借りたのか。
 「他人の言葉だから自分に責任はないと、ごまかしをして戦争に加担する詩を書く。そういう恐れが自分にはあるし、そんな消極的賛成こそが危険だと指摘したかった」
 山田も高村の詩で当時の空気を学んだ。「人々が動員された熱狂が伝わってきた」

 若い詩人はなぜ今、戦争を意識するのだろう。「戦争詩論」の著書がある詩人の瀬尾育生(いくお)(70)は「フェイスブックなどSNSでの発言も気が抜けない。今の社会は主流の価値観以外を認めず、正しさを強いる息苦しさがあり、その空気を戦時中に直感的に重ねている」とみる。山田らの「戦争詩」はそんな同調圧力への反抗、というのだ。
 詩人の野村喜和夫(67)も最近の若い世代の詩を「反抗と怒りの言語化」とみる。経済は失速、政治は右傾化し、震災も発生。「原発事故、強大な国家、グローバル資本主義……。統御できない怪物たちを前に我々は途方に暮れるしかない。怒るのは当然」
 野村は今年刊行する評論に「危機を生きる言葉」という題をつけた。「詩人は貧乏や逆境に強く、危機に力を持ちうる。全体性という巨大な怪物から逃れた詩の言葉は『弱い力』を解き放ち、読む人の生に力を与える」と野村はいう。そして希望を込め、レジスタンスにも身を投じたフランスの詩人ルネ・シャールの詩句を挙げる。〈危機がきみの光明であるようにするのだ〉。危機の時代だからこそ、詩の可能性を信じたい。=敬称略(赤田康和)


こうして各紙の記事を並べてみると、現在の「世相」というものが見えてくるものですね。

ちなみに、鈴木氏の「高村光太郎日記」の載った雑誌『てつき1』、注文しました。届きましたらまたご紹介します。


次に、『石巻日日新聞』さん。一昨日もご紹介しました、女川町にかつて建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクト「いのちの石碑」関連です。 

石巻地方で成人式 1900人 震災経て門出 次代を担う二十歳の誓い

きょう14日は「成人の日」。それに先立つ13日、石巻地方の各地で成人式が行われた。今年の新成人は平成10年4月2日―同11年4月1日生まれ。東日本大震災発生当時は小学校6年生だった世代で、石巻地方の対象者は石巻市1357人(男704人、女653人)、東松島市484人(男266人、女218人)、女川町126人(男56人、女70人)が対象となった。二十歳という人生の節目を迎えた紳士淑女たちは久しぶりに再会した友人と近況を報告し合い、将来への決意を胸に刻んだ。

女川町 古里と仲間忘れず未来へ004

 女川町の成人式は13日、生涯学習センターで開かれた。町内21の浜に震災の記憶を未来に伝える「いのちの石碑」の建立に取り組む、女川中の卒業生約60人が出席。決意新たに一歩を踏み出した。
 「多感な時期に苦労をかけ、本当に申し訳なかった」。震災を振り返り、祝辞で深謝した須田善明町長は「辛さ痛みを背負い、皆で行動してきた。その力は誇り。これから人生の幸をつかみ、何事も真剣に全力で取り組んでほしい」と語った。
 新成人代表の千葉嵩斗さん、鈴木美亜さんが「どこにいてもふるさと女川、大震災でも欠けることのなかった仲間を忘れず、一歩ずつ自分の足で未来に向かって進み、社会の発展に貢献していく」と誓いを立てていた。


女川光太郎祭等でお世話になっている、須田町長さんの祝辞、「多感な時期に苦労をかけ、本当に申し訳なかった」の語に、はっとさせられました。別に町長さんが謝ることではありませんし、震災当時は前町長の町政時代でしたし……。

同じく、女川町の成人式について、新聞ではありませんが、仙台放送さんのローカルニュースから。

「千年後の命を守る」活動とは…女川中学校の卒業生が20歳に誓う

「成人の日」は14日ですが、宮城県内のほとんどの自治体では13日、成人式が開かれ、約2万4千人が大人への第1歩を踏み出しました。このうち、女川町では千年後の命を守りたいと活動を続けた女川中学校の卒業生たちが新成人を迎えました。

13日に開かれた、女川町の成人式。
鈴木美亜さん(新成人誓いの言葉)
「どこに行ってもふるさと女川と、大震災でも欠けることなかった大切な仲間を忘れることなく1歩ずつ自分の足で未来に向かって進んでいきます」
千葉嵩斗さん

「そして、ここから生まれる素晴らしい出会いを大切にし、未来の社会の発展に貢献する
ことをここに誓います」
この日参加した新成人は震災当時、小学6年生。1カ月後に入学した女川中学校で、ある活動を始めた学年です。
阿部一彦先生 (2012年取材)
「千年後まで残しましょう。ここで中途半端にしてはダメだ!大人に訴えましょう!伝わるはず!絶対」
それが、千年後
の命を守るための「いのちの石碑」作り。町内21の浜の津波到達点に石碑を建てる計画です。震災から2年後、2013年に1基目が完成。6年かけ、これまでに17基が建てられました。そしてもう1つ、「いのちの教科書」作り。防災の知識や避難の意識、そして、自分たちの経験などを綴り、2017年、完成しました。2つの活動は今も続き、石碑は最後の21基目の完成を、教科書は来年の改訂を目指しています。
山下脩くん
「この仲間たちじゃなかったら多分途中で諦めていたかもしれないし、みんなで支え合って何でも言い合ってきたか
らこそ、ここまで来れたのかな」
伊藤唯さん
「この活動今は十何人とかすごい少ないんですけど、もとは中学生の時に同級生みんなで始めた活動なので、みんなの気持ちを背負って活動していきたい」
そんな彼らに、この日、ある物が配られました。それは「俳句」を書く紙。いのちの石碑には、震災後、授業で詠んだ同級生たちの俳句が刻まれています。 最後の1基、21基目に刻む俳句は成人を迎えた今回書いた俳句の中から選ぶことにしました。いのちの石碑。その1基目に刻まれた句は「夢だけは壊せなかった大震災」。
橋本華奈さん
「4月からバスガイドになるんですけど、東京オリンピックが開催されるからこそ、東京で色んな方に日本の良さを知ってもらえれば」
小松玲於さん
「今、機械保全の仕事をしているんですけど、それとは別でウェディングプランナーという仕事をやってみたくて、それに向けて勉強しているんですけど、なれるように責任持って、ちゃんとした大人になれれば」
鈴木智博さん

「今大学入っているので勉強して女川町とか、お世話になって人に恩返しできるような大人になれれば」
「千年後の命を守る活動」に参加し続けた山下脩さん。海上保安官になるという夢を叶えました。
「地元である女川だけじゃなくて、宮城、東北の海の安全を守るのが目標で、まだ行方不明者の方とかいるので、実際に潜水捜索とかではないんですけど、その支
援として行方不明者捜索にも関わっていきたい」
伊藤唯さん。「笑顔を届けたい」とダンサーを目指しています。
「ダンサーになることも1つですし、
あとはこの活動がもっと多くの人に知ってもらって命の大切さとか、災害は起こりうるものなので、そういう時の対策を多くの方に知っていただいて、後は成人式を迎えたので、自分自身も責任を持って日々過ごしていけたら」

「千年後の命を守る」活動を続ける女川中学校の卒業生たち。それぞれの夢を追いながら、大人の1歩を踏み出しました。


 
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この「いのちの石碑」をめぐる物語、NHKさんが、平祐奈さん主演でドラマ化。3.11直前の3月9日(土)に放映されるそうです。

また近くなりましたら、詳細をお伝えいたします。


【折々のことば・光太郎】

今でも、何かあぶないなと思ふ事にあつたり、前後のわからないやうな、むつかしい考に悩んだりする事がある度に、小父さんはまづ自分の足の事を思つてみる。自分がほんとにしつかり立つて、頭を上にあげてゐるかしらと思つてみる。

散文「小父さんが溺れかけた話」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

自分がほんとにしつかり立つて、頭を上にあげてゐるかしら」という問い。常に持っていたいものですね。