東京都三鷹市より、企画展示の情報です。智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』(平成9年=1997)で芸術選奨文部大臣賞を受賞され、2016年には文化功労者にも選ばれた津村節子さんに関わるものです。 

「吉村昭と津村節子・井の頭に暮らして」展

期 日 : 前期 2019年1月12日(土)〜2月2日(土)   後期 2月5日(火)~2月24日(日)
会 場 : 前期 井の頭コミュニティ・センター図書室  三鷹市井の頭二丁目32番30号
          後期 三鷹図書館(本館)  三鷹市上連雀八丁目3番3号
時 間 : 前期 正午~20時(土曜は10時から 日曜日は10時~16時30分 最終日は15時まで)
          後期 9時30分~20時(土曜、日曜・祝日は17時まで)
料 金 : 無料
休 館 : 前期 月曜日・祝日  後期 月曜日・第3水曜日(2月20日)

三鷹市ゆかりの文学者顕彰事業の一環として、ともに作家であり、夫婦でもある吉村昭と津村節子を取り上げ、市内2ヵ所で巡回展示を開催します。
両者が作家として築き上げてきた文学の世界を多彩な著作から紹介しつつ、二人が夫婦として長年暮らした三鷹とのゆかりを紹介します。
本展では、初版本や、自筆原稿、色紙など数々の資料をご覧いただけます。展示内容に違いもありますので、お時間のある方は両施設にぜひ足をお運びください。

展示予定資料
 吉村昭・津村節子 自筆色紙
 吉村昭 自筆原稿「わがふるさと三鷹 文学散歩」
 津村節子 自筆原稿「私の青春・二十歳で洋裁店のマダムだったが」ほか

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『朝日新聞』さんの東京版に紹介記事が出ました。  

東京)吉村昭さん津村節子さんに迫る 三鷹で巡回展

 東京都三鷹市で1~2月、巡回展「吉村昭と津村節子――井の頭に暮らして――」がある。ともに作家で夫婦の吉村さん(1927~2006)と津村さん(1928~)は長年、市内で暮らした。資料の展示などを通じ、2人の文学や市とのゆかりを紹介する。
 現在の東京都荒川区で生まれた吉村さんは、学習院大学を中退後、1953年に同人仲間だった津村さんと結婚。66年に「星への旅」で太宰治賞を受賞し、同年の「戦艦武蔵」で記録文学に新境地をひらいた。「ふぉん・しいほるとの娘」「冷い夏、熱い夏」「破獄」「天狗(てんぐ)争乱」などを発表。数多くの文学賞を受けた。
 福井市出身の津村さんは学習院短大卒。65年に「玩具」で芥川賞を受賞した。自伝的小説や歴史小説、エッセーなどで幅広く活躍。代表作には「智恵子飛ぶ」「流星雨」「異郷」などがある。
 三鷹市スポーツと文化財団などによると、2人は69年、「都心に近く、自然も残り、創作に理想的だ」などとして市内に転居。都立井の頭公園近くに居を構えた。吉村さんは最晩年、膵臓(すいぞう)がんの手術を受けて、自宅で療養。没後の2006年夏、津村さんはお別れの会で、「ヒグラシが鳴いて井の頭公園の風が吹いてくるのを喜んでいた」と吉村さんについて振り返っている。
 巡回展では「戦艦武蔵」や「玩具」の初版本、2人の色紙や写真などを展示。財団学芸員の三浦穂高さんは「2人にとって、作家としても夫婦生活を送るうえでも、三鷹は大事な場所だったのだろう」と話す。
 巡回展は1月12日~2月2日が井の頭コミュニティ・センター図書室(井の頭2丁目)、2月5~24日が市立三鷹図書館(上連雀8丁目)。2カ所で内容が一部異なる。ともに無料。開館時間や休館日の問い合わせは山本有三記念館(0422・42・6233)へ。(河井健)


津村さんに関しては、昨秋、吉村氏の故郷・荒川区の吉村昭記念文学館さんで「おしどり文学館協定締結1周年記念 荒川区・福井県合同企画展 津村節子展 生きること、書くこと」、及び、「第2回 トピック展示「津村節子『智恵子飛ぶ』の世界~高村智恵子と夫・光太郎の愛と懊悩~」が、同館と「おしどり文学館協定」を結ぶ、津村さんの故郷の福井県ふるさと文学館さんで「おしどり文学館協定締結1周年記念 荒川区・福井県合同企画展「津村節子~これまでの歩み、そして明日への思い~」が開催されましたが、今回は、ご夫妻で長く住まわれ、津村氏が現在もお住まいの三鷹市での開催です。

『智恵子飛ぶ』に関する展示もあるかと存じますので、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】000

すばらしい大きな雷が一つ、角の牛肉屋の旗竿にお下(くだ)りになつた後、やうやく雨の降りやむ迄の一二時間、裸でみんなの前に坐つてゐるおぢいさんの、確信のあるそのちよん髷頭が、どんなに私の力となつたらう。雷が鳴るといつでも、あの時のおぢいさんが眼に見える。

散文「雷の思出」より 
大正15年(1926) 光太郎44歳

子供の頃から、そしていい大人になった後も、光太郎は雷が大嫌いでした。子供の頃は、同居していた祖父の兼松が、雷が鳴ると直撃を避けるおまじない的なことをしてくれ、それが心強かったというのです。

上記のエピソードは明治16年(1883)生まれの光太郎の幼少時ですから、明治10年代終わりか、20年代初めでしょう。断髪令が出たのが明治4年(1871)、そんなことはお構いなしにまだ髷を結っていた兼松。この頑固さは、光太郎にも遺伝しているようです。