一昨日、北千住のBUoYさんに観劇に行く前、同じ下町の蔵前に立ちよりました。自宅兼事務所、東京都に隣接する千葉県ですが、千葉でも田舎の方なのでしょっちゅう都内に出るわけではなく、都内に出る時には複数の用事をこなさいと気が済みません(笑)。

向かったのは、東京メトロ蔵前駅近くの榧寺(かやでら)さん。

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戦国時代に創建されたという古刹です。

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江戸後期、葛飾北斎の浮世絵にも描かれています。

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光太郎の父・光雲が、幕末から明治初めに徒弟修行をした、高村東雲の工房が近くにありました。そのため、昭和4年(1929)に刊行された、『光雲懐古談』にもしばしば登場します。

黒船町(くろふねちやう)へ来ると、町(まち)が少し下つて二の町となる。村田の本家(烟管屋)がある。また、榧寺(かやでら)という寺がある。境内に茅が植つてゐた。
(「名高かつた店などの印象」)

何(な)にしろ、今度の火事は変な火事で、蔵前(くらまへ)の人々は、家が残つて荷物が焼けました。此は、荷物を駒形の方へ出した為です。急(きふ)に西風に変つた為に蔵前の家々は残りました。丁度、黒船町(くろふねちやう)の御厩河岸(おんまやがし)で火は止まりました。榧寺の塀や門は焼(や)けて本堂は残(のこ)つてゐた。
(「焼け跡の身惨なはなし」)

吾妻橋は一つの関門で、本所(ほんじよ)一圓(えん)の旗本御家人が彰義隊に加勢(かせい)をする恐れがあるので、此所(こゝ)へ官軍(くわんぐん)の一隊が固めてゐたのと、彰義隊の一部(ぶ)が落ちて来た為一寸小ぜり合(あ)ひがある。市中警戒という名で新徴組の隊士が十七八人榧寺に陣取(ぢんと)つてゐる。異様の風体(ふうてい)をしたものが右往左往してゐるといふ有様(ありさま)でした。
(「上野戦争当時のことなど」)

さて、この榧寺さんの境内に、光雲が原型を作った地蔵尊が露座でおわすという情報を得、拝観に伺った次第です。都内や神奈川県内等に、やはり光雲が原型を作った、多くは鋳銅の仏像が安置されている例は多く、これまでも折を見て拝観して廻っておりました。鎌倉長勝寺さん、横浜で増徳院さん、浅草の浅草寺さん、巣鴨は妙行寺さん、南千住に円通寺さん、駒込大圓寺さん、そして関西では京都の知恩院さんなど。

榧寺さんの地蔵尊はこちら。

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「厄除け地蔵」だそうです。とても優しいお顔でした。

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通常、地蔵尊は、右手に錫杖、左手に宝珠というのがお約束です。こちらのお地蔵様、左手は宝珠を約束通りにお持ちですが、右手は徒手です。どうも、元は手にされていた錫杖が無くなってしまっているのではないかと思いました。それとも、元々徒手で、何らかの印を結ばれているのでしょうか。

特に縁起等は記されていませんでしたが、昭和25年(1950)に安置されたとのこと。昭和25年といえば、光雲は既に亡くなっています。

お寺の方にパンフレットを頂き、お話をさせていただきましたが、詳しい経緯は不明でした。また、木彫原型等もこちらには残っていないとのこと。

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境内には他にもお地蔵様が。

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左上は「飴なめ地蔵尊」。永井荷風の小説に登場するそうです。右上は「お初地蔵尊」。大正期の児童虐待事件の被害者を供養するために奉納されたとのこと。

それから、い000ただいたパンフレットを読んでいて、驚きました。「著名人の墓」という項があり、その中に洋画家の安井曾太郎の名が。光太郎は明治41年(1908)から翌年にかけ、海外留学でパリに滞在していましたが、その際、有島生馬、山下新太郎、津田青楓らとともに、やはりパリにいた留学仲間です。

安井は京都系だった記憶があり(あとで調べてみると確かにそうでした)、こちらに墓があるとは存じませんでした。考えてみれば、故郷に墓があるとは限りませんのであり得る話です。

あいにく香華の持ち合わせがありませんでしたが、光太郎の代参のつもりで手を合わせて参りました。「パリでは大変お世話になりました」と。


他にも、光雲の手になる仏像が露座でましますお寺はいくつかあるようなので、今後も折を見て拝観に廻りたいと存じます。

皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

幾度もう仕上げてしまはうと思つたか知れませんが、その度に何かが私を引き止めて、又その先きの道を歩かせました。私は其の何かに導かれながら年を重ねました。さうしてその歩みは私を駆つていつのまにか彫刻の禁苑らしい処へつれて来ました。私は今ふりかへつてみて、自分がこの胸像をいそいで作り上げてしまはなかつた事に対して自分に感謝します。

散文「成瀬前日本女子大学校長の胸像を作りながら」より
 大正15年(1926) 光太郎44歳

過日も同趣旨の文章から言葉を引きましたが、大正8年(1919)に、智恵子の母校・日本女子大学校に依頼された同校創業者の成瀬仁蔵胸像が、なかなか完成しないことへの釈明の文章から。その長い間にも、自分は進化し続けているので、待ってほしい、という趣旨です。結局、像の完成は昭和8年(1933)でした。