昨日は、今年初めて都内に出ておりました。
メインの目的は、観劇。北千住のBUoYさんという不思議なスペースが会場でした。
「岸井戯曲を上演するinTokyo#1「かり」」。岸井大輔氏という劇作家の方が書かれた同一の「戯曲」を、3組の方がそれぞれの表現で演じられる、といういわば実験的な試みでした。
ただ、それは「PLAYS and WORKS旗揚&新春企画 あそびとつくりごと1 出版記念の2日間」というイベントの一部、という扱いでした。
先ほど、「戯曲」と書きました。なぜカギカッコつきで「戯曲」なのかというと、通常の戯曲という概念から離れたものだからです。
通常、戯曲というと、ほぼ台本や脚本、シナリオとイコール、すなわち、ト書きがや役者さん達のセリフが書いてあるものだと思いますが、岸井氏の「戯曲」の概念は、違います。
今回、取り上げられた「かり」という戯曲は、以下の通り。
かり
動物を狩り、植物を苅り、カリという語は、自然から借りるからきている。人生も仮住まいというように、生きているのは、何かから借りた、仮の姿であるので、拝借の借りという言葉が、一時的の仮に使われるようになった。
例えば、演技をするとき、私は私をかりている。では私に私をかしているのは誰か。
動物を狩り、植物を苅り、カリという語は、自然から借りるからきている。人生も仮住まいというように、生きているのは、何かから借りた、仮の姿であるので、拝借の借りという言葉が、一時的の仮に使われるようになった。
例えば、演技をするとき、私は私をかりている。では私に私をかしているのは誰か。
これで全文、これだけなのです。
ここから、3人の演者の皆さんが、それぞれにイマジネーションを働かせ、自分なりの「かり」を作り上げ、それを披露されたというわけです。
お一人目、キヨスヨネスクさんという方は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を延々と読まれました。お三方目、佐藤明子さんという方は、葛の葉伝説などを下敷きにした映像作品でした。
そしてお二人目の、辻村優子さんという方。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」をモチーフにして下さいました。
ほぼほぼずっとこのポーズです。基本、セリフは事前に録音されていたものをスピーカーから流す形。ただ、後半、肉声も入りました。
辻村さん、俳優としても各種の舞台などにご出演されているそうですが、本業的には、美術作品のモデルさんだそうで、明治末に智恵子が油絵を学んだ太平洋画会の後身・太平洋美術会さんでもモデルを務められているそうです。
そのモデルさんとしての実体験から、今回の内容を思いつかれたそうで、いわば「モデルあるある」的な(笑)。ある時、大きな彫刻のモデルをなさった折、作家の方が席をはずした際に作品を見てみると、作品の足もとにたくさんの紙切れが……。見ると、すべて某多人数アイドルグループの人気メンバーの写真。彫刻の顔を見上げると、まぎれもなくその方の顔……。というエピソードが挿入されましたが、実話だそうです。
「乙女の像」も、顔は亡き智恵子、ということで、まぁ、それにはそこに至るまでの光太郎智恵子の鮮烈な生の試みや、戦後の彫刻封印と自己流謫(るたく)=自分で自分を流刑に処すること、といった長いドラマがあるのですが、そのあたりは、拙稿も載っております『十和田湖乙女の像のものがたり』をお読み下さい。
終演後、お三方と、司会の方でトークショー。
ここで、先ほどの岸井氏の「戯曲」の定義、的なお話も出ました。また、やはり辻村さんのモデルとしてのいろいろなお話など、興味深く拝聴しました。
更にその後、辻村さんとお話をさせていただきました。今回、「乙女の像」のポーズをずっとなさってみて、見た目には判らないものの、かなり身体に「ひねり」が入っているというお話を伺い、意外に感じました。「乙女の像」のモチーフの一つが観音像なので、同じ仏像でも、天部や明王などのそれとは違い、まっすぐに立っているというイメージでいたものですから。こういう点は、実際にやってみないとわからないことですね。
さて、今後も、光太郎智恵子の世界、様々な表現者の皆さんが、それぞれの解釈で挑んでいっていただきたいものです。
【折々のことば・光太郎】
批評精神に満つるが故に却つて分せき的でなくて包摂的な、明徹であるが故に逆説と順応との入りまじる、抑へ難い闘志に燃えるが故にあらゆる人と物との価を発見せずにおかない、単純であるが故に内に複雑な結構の生れる、微妙のものを感ずるが故に感傷性に曾て墜ちない、この放縦にしてしゆく然たる彼の目にふれるのはよさう。
散文詩「ある首の幻想」より
大正14年(1925) 光太郎43歳
大正14年(1925) 光太郎43歳
粘土の塑像で、詩人、新聞記者だった中野秀人の首を作っている際の様子を記したものです。彫刻は、おそらく昭和20年(1945)の空襲で焼けてしまって、現存が確認できません。
ここでいう「彼」とは、確かにモデルの中野を指すとも考えられますが、どうも光太郎本人のことでもあるような気もします。
結局、あらゆる芸術作品は、モデルなりモチーフなりの姿を「借り」て、自分の内面を「仮」にこうだと表出するものなのでは、などと思いました。
ちなみに光太郎には、同じ年に書かれた「首狩」という詩も存在します。彫刻のモデルにふさわしい「首」をさがすという内容です。