今年のNHKさんの大河ドラマが、明後日から始まります。
いだてん ~東京オリムピック噺(ばなし)~
2019年1月6日(日)~本放送 NHK総合 日曜 20:00~ BSプレミアム 日曜 18:00~ BS4K 日曜 9:00~
再放送 NHK総合 土曜 13:05~ BS4K 土曜 8:00~
1959年、五輪招致目前の東京。落語家の古今亭志ん生(ビートたけし)は日本橋を通り寄席に向かっていた。その日、高座で志ん生が語り出したのは、50年前の日本のオリンピック初参加にまつわる噺。1909年、柔道の創始者、嘉納治五郎(役所広司)はストックホルム大会を目指して悪戦苦闘していた。スポーツという言葉すら知られていない時代。初めての派遣選手をどう選ぶか。日本オリンピック史の1ページ目を飾る物語。
出演 中村勘九郎 阿部サダヲ 生田斗真 森山未來 神木隆之介 竹野内豊 役所広司 ほか
噺・出演 ビートたけし
前後半、途中で主役が替わるという大河ドラマ史上初の試みが為されます。
前半は、日本人初のオリンピック選手・金栗四三(かなぐり・しそう)。歌舞伎の中村勘九郎さんが演じられます。後半は、」阿部サダヲさん扮する昭和39年(1964)の東京オリンピック招致に奔走した田畑政治。
「この2人がいなければ日本のオリンピックはなかった」というキャッチコピーです。
公式サイトから。
金栗、田畑、ともに光太郎智恵子や光雲との直接の関係はなかったようですが、関わりのあった人物が登場します。
まず、講道館柔道創設者・嘉納治五郎師範(講道館柔道初段の当方、畏れ多くてとても呼び捨てに出来ません(笑))。演じられるのは役所広司さんです。
公式サイトから。
金栗四三の憧れの人物であり、人生の恩師。金栗の進学する東京高等師範学校の校長。講道館柔道の創始者でもあり、”日本スポーツの父”と呼ばれる。アジア初のIOC委員として、日本のオリンピック初出場のために奮闘し、選手団団長として参加。人並み外れた情熱と、ひょうひょうとしたユーモアを併せ持つ大人物。
光太郎、昭和9年(1934)に、嘉納師範の肖像レリーフを作っています。文京区の講道館さんの2階にある柔道資料館に収蔵されています。
ただし、クレジットは光雲。光雲はこの年胃ガンで亡くなっており、光雲に依頼があったものの、もはやそれに応えられず、光太郎が代作したのでしょう。
制作に際し、光太郎が嘉納師範と会ったかどうか不明ですが、有名な嘉納師範の肖像写真と似た構図ですので、それを元に作ったという線が濃厚であるような気がします。
10年ほど前でしょうか、このレリーフがネットオークションに出たことがあります。その際は画像だけでは真贋の判断がつかず、入札しませんでした。その後、出品されていないようですが、いずれ入手したいと思っております。
光太郎と嘉納師範の僅かな関わりがもう一つ。
明治39年(1906)からの海外留学に出る前の光太郎、当時日本に入ってきた鉄アレイを使ってのボディービルにはまっていました。その提唱者がドイツ人ボディビルダー、ユージン・サンドウ。明治33年(1900)に、サンドウの著書が『サンダウ体力養成法』として邦訳され、50版以上を重ねるちょっとしたベストセラーとなりました。おそらく光太郎もこれを読んだと思われます。その序文を書いたのが、誰あろう嘉納師範でした。
「サンドー式体操」と呼ばれたトレーニングで鍛えた光太郎、そのおかげで留学先のニューヨークで、米国人学生との喧嘩に完勝したそうです。
「いだてん」での嘉納師範、かなり重要な役どころのようで、おそらく早い段階から活躍するようです。
もう一人、間接的ながら光太郎と関わった人物が、「いだてん」に登場します。
やはり金栗にからむ、大日本体育協会副会長・武田千代三郎。演じられるのは永島敏行さん。少し後になってからのご登場のようです。
武田が大日本体育協会副会長に就任したのは、大正2年(1913)。その直前までは青森県知事でした。当時の知事は民選ではなく、中央からの派遣。武田は筑後柳川の出身です。赴任先の青森で見た十和田湖の景観に打たれ、道路の開墾等に尽力しました。実はそれ以前に、明治天皇から十和田湖について訊かれたものの、満足に答えられなかったことを恥じて、早速十和田湖を観に行き、「こんな美しい場所だったのか」と仰天したそうですが。
そのため、雑誌『太陽』で初めて十和田湖の美しさを世に広めた大町桂月、武田に協力して十和田湖周辺の整備に力を尽くした法奥沢村長・小笠原耕一と共に、「十和田の三恩人」と讃えられました。
昭和28年(1953)に除幕された、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、元々周辺の国立公園指定15周年を記念し、「十和田の三恩人」を顕彰するためのモニュメントとして作られたものです。
昨年、永島さんが武田役でご出演、という情報を得、それなら観なければ、と思った次第です。
ちなみに当方、20年ほど前に、永島さんを羽田空港でお見かけしました。和服にインバネスの出で立ちで、「いやー、かっこいい」と思いました。
皆様もぜひご覧下さい。
【折々のことば・光太郎】
しかし木彫は短歌のやうな面白味があつて此上なく私の心を慰めてくれる。彫つてゐながら如何にも気持がいい。
散文「近状」より 大正13年(1924) 光太郎42歳
「蝉」や「鯰」などの木彫小品を作っていた時期の文章から。光太郎の生涯の中で、最も平穏だった時期です。