演劇の公演情報です。
岸井戯曲を上演するinTokyo#1「かり」
期 日 : 2019年1月5日(土)・6日(日)会 場 : 北千住BUoY 東京都足立区千住仲町49−11
時 間 : 1/5 18:00~20:00 1/6 13:00~15:00
料 金 : 2,500円
同じ戯曲を、いろいろなアーティストがやってみて、そのあとに対話をする人気シリーズ「岸井戯曲を上演する」。
横浜blanClass、京都UrBANGUILDでの上演シリーズに続き、東京でも定期的に上演します。
東京開催の第一回目に扱う「かり」は、以下の大変短い戯曲です。
横浜blanClass、京都UrBANGUILDでの上演シリーズに続き、東京でも定期的に上演します。
東京開催の第一回目に扱う「かり」は、以下の大変短い戯曲です。
かり
動物を狩り、植物を苅り、カリという語は、自然から借りるからきている。人生も仮住まいというように、生きているのは、何かから借りた、仮の姿であるので、拝借の借りという言葉が、一時的の仮に使われるようになった。
例えば、演技をするとき、私は私をかりている。では私に私をかしているのは誰か。
かつて、大石将弘や山田宏平によって上演された、俳優には人気の戯曲に、3人の若手が挑みます。3種類の上演とそのあとのトーク、ぜひご参加ください。
動物を狩り、植物を苅り、カリという語は、自然から借りるからきている。人生も仮住まいというように、生きているのは、何かから借りた、仮の姿であるので、拝借の借りという言葉が、一時的の仮に使われるようになった。
例えば、演技をするとき、私は私をかりている。では私に私をかしているのは誰か。
かつて、大石将弘や山田宏平によって上演された、俳優には人気の戯曲に、3人の若手が挑みます。3種類の上演とそのあとのトーク、ぜひご参加ください。
バージョンA 辻村優子(俳優) バージョンB 佐藤朋子(アーティスト) バージョンC キヨスヨネスク(俳優)
司会 山田カイル(ドラマトゥルク)
司会 山田カイル(ドラマトゥルク)
明治末、智恵子が絵画を学んだ太平洋画会の後身・太平洋美術会さんで、モデルを務められている方もご出演なさるそうで、その方から同会の坂本富江さんに情報が伝わり、坂本さんから当方に連絡がありました。
光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」(昭和28年=1953)をモチーフとして取り上げられるそうで、坂本さん情報では、「乙女の像」の顔が、モデルと全く似ていないことに対する解釈、的な内容だそうです。
「乙女の像」のモデルを務めたのは、現在も続くプールヴーモデル紹介所に所属していた、当時19歳だったという藤井照子。しかし、戦後すぐの頃から光太郎が構想を抱いていた「智恵子観音」の具現化という意味合いもあり、顔は明らかに智恵子の顔です。
智恵子の顔とからだを持った観音像を一ぺんこしらえてみたいと思っています。仏教的信仰がないからおがむものではないが、美と道徳の寓話としてあつかうつもりです。ほとんどはだかの原始的な観音像になるでしょう。できあがったら、あれの療養していた片貝の町(九十九里)におきたいと考えています。
(昭和25年=1950 神崎清との対談「自然と芸術」)
(昭和25年=1950 神崎清との対談「自然と芸術」)
光太郎は、「乙女の像」の制作が始まると、それが智恵子像であるとは公式には発言しませんでしたが、周辺の人物の証言がいろいろ残っています。
東京のアトリエのことなどを相談しているうちに、「智恵子を作ろう」と、ひとりごとのように高村さんはいわれた。それはこんどの彫刻に対する作者自身の作意を洩されたものであつたが、高村さんはその言葉のあとで、そんな個人的な作意を十和田湖のモニユマンに含ませることは、計画者の青森県にすまないような気がすると、そんな意味の言葉を申し添えられたのである。
(谷口吉郎「十和田記念像由来」 『文芸』臨時増刊号 昭和31年=1956)
製作にかかる前、
「智恵子さんの写真もなにも戦災でなくしたのに、どうやってその何十年も前に見た顔をつくるんですか」ときくと、高村さんは、
「この手に智恵子のかたちがのこってるんですよ。」
と、あの子供の頃から彫刻できたえ上げた大きな両手で、空間に形を示しながら答えていました。
「智恵子さんの写真もなにも戦災でなくしたのに、どうやってその何十年も前に見た顔をつくるんですか」ときくと、高村さんは、
「この手に智恵子のかたちがのこってるんですよ。」
と、あの子供の頃から彫刻できたえ上げた大きな両手で、空間に形を示しながら答えていました。
(藤島宇内「逝ける詩人高村光太郎」 『新女苑』第二十巻第六号 昭和31年=1956)
このあたりがどう表現されるのか、非常に興味がありますので、1/6の部を観に行って参ります。のちほど観劇記をレポートいたします。
【折々のことば・光太郎】
すべての技芸がさうであるやうに、詩の朗読も、その無装飾の基礎から最初は進むべきかと思ふ。今日の実際経験から考へても棒読みに近い朗読ほど詩の内面のニユアンスを抑揚頓挫の烈しい、表情の多い朗読よりも、却て微妙に出すやうである。
散文「詩の朗読」より 大正13年(1924) 光太郎42歳
いわゆる「クサい」朗読を、光太郎は一刀両断にしています。同じ文章に曰く「詩の感動を朗読者の個人癖による趣味から出放題な節をつけて、声をふるはせたりなどされると、背すぢがぞつとして恥かしくなる」。
なるほど、という気がしますね。