昨日、テレビ東京さんの「美の巨人たち 上野のシンボル!高村光雲『西郷隆盛像』が愛され続ける理由」について書きましたが、もう少し西郷隆盛像について。
上記は当方所蔵の古絵葉書。宛名面の様式からして、除幕(明治31年=1898)からそう経っていない明治39年(1906)までのものと推定されます。見物の人々の「おお」という声が聞こえてきそうですね。
主任として制作に当たった光雲の息子として、光太郎はこの像をどう見ていたのか、光太郎の書いたものからご紹介します。ちなみに除幕の年、光太郎は数え16歳、前年に父・光雲が教鞭を執っていた東京美術学校に入学しました。
まずはその制作時のことを回想しての文章から。
美術学校の岡倉さん時代は、先生といふものは一年を通じて生徒の面倒をみることが出来れば他に何をしても構はないといふ状態で、きちんと学校には来ても来なくてもいいといふことで、先生は学校で多くお手本となるものを拵へてゐた。又政府の関係団体などから始終記念像等の註文が来る。先生はその製作に従事してゐれば、それが教授の一つの実例になつて、生徒は見てゐていろいろ学ぶ。例へば父が仕事に与つた楠公の銅像の時は微かにしか覚えてゐないけれど、西郷隆盛の銅像の時はよく知つてゐるが、美術学校の中に臨時に小屋を拵へてやつた。
(略)
西郷さんの像の方は学校の庭の運動場の所に小屋を拵へ、木型を多勢で作つた。私は小学校の往還りに彼処を通るので、始終立寄つて見てゐた。あの像は、南洲を知つてゐるといふ顕官が沢山ゐるので、いろんな人が見に来て皆自分が接した南洲の風貌を主張したらしい。伊藤(博文)さんなどは陸軍大将の服装がいいと言つたが、海軍大臣をしてゐた樺山さんは、鹿児島に帰つて狩をしてゐるところがいい、南洲の真骨頂はさういふ所にあるといふ意見を頑張つて曲げないので結局そこに落ちついた。南洲の腰に差してあるのは餌物を捕る罠である。樺山さんが彼処で大きな声で怒鳴りながら指図してゐたのを覚えている。原型を作る時間は随分かかる。小さいのから二度位に伸ばすのである。サゲフリを下げて木割にし、小さい部分から伸ばしてゆく。そして寄木にして段々に積み上げながら拵へたものだ。山田鬼斎さん、新海(竹太郎)さんなどいろいろな先生が手伝つてゐた。その製作の工程には、それに準じて様々な仕事がある。削る道具も極く大きいから各種の工夫のあるものが要るし、大工に属する仕事が沢山ある。さういふのを生徒が毎日見ながら覚えることは生徒の為にはなつたらうと思ふ。
(談話筆記「回想録」より 昭和20年=1945)
除幕は明治31年(1898)でしたが、木型の制作はもっと早くから行われていました。「小学校」とあるのは下谷高等小学校、光太郎は明治29年(1896)にここを卒業しています。
光太郎の記憶に依れば、兎狩りの姿にすることを主張したのは、やはり薩摩出身の樺山資紀だったそうですが、少年時代の伝聞ですので、何とも言えません。
そうして出来た西郷像、最晩年の光太郎はこう評しています。
静かに考へてみると、結局父光雲は一個の、徳川末期明治初期にかけての典型的な職人であつた。いはゆる「木彫師(きぼりし)」であつた。もつと狭くいへば「仏師屋(ぶしや)」であつた。仕事の種類からいつて、仏師屋の縄張をはるかに突破したやうな、例へば「楠公銅像」とか「西郷隆盛銅像」とかいふものを作つても、その製作の基調はやはり仏師屋的であつた。
(略)
父の作品には大したものはなかつた。すべて職人的、仏師屋的で、又江戸的であつた。 「楠公」は五月人形のやうであり、「南洲」は置物のやうであり、数多い観音、阿弥陀の類にはどれにも柔媚の俗気がただよつてゐた。
(「父との関係―アトリエにて2―」より 昭和29年=1954)
しかし、全く評価していなかったかというと、そうでもなかったようです。
幸に日本彫刻の伝統の中に肖像彫刻の一目があつて、天平以来彫刻と人間とのつながりをともかくも保持してゐる。人間とのつながりと言つても、古代に於いてはもとより凡夫の像ではなく、宗祖とか開基とか、いづれも高徳名智識の像であり、従つて半ば仏像に準ずるものである。いづれも礼拝の対象であるから、その相貌風姿も、彫刻様式もほぼ仏像に依る手法で作られてゐる。例へば耳朶の如きも大抵仏像に見るやうに長大に造られ、着衣の衣紋も仏像の衣紋に近く、決して有りのまま肖像的理念によつて出来たものではない。
(略)
此の延長が明治時代に於ける西郷隆盛の銅像である。上野に立つてゐるあの銅像はまつたく仏像彫刻の技法の一転した木彫様式の写実であつて、恐らく斯かる様式の最後をなすものと言へよう。さういふ意味でもあの銅像は甚だ興味があるのである。
(「本邦肖像彫刻技法の推移」より 昭和16年=1941)
なるほど、実作者でもあり卓越した評論家でもあった光太郎の鋭い視点が垣間見えます。仏像との類似という点では、他の機会にも言及しています。
父の作つた銅像の原型はみな木彫であつた。粘土や石膏では作らなかつた。上野の西郷南洲でも、二重橋外の楠公銅像でもみな寄木(よせぎ)法による木彫で原型を作つた。西郷銅像の風に吹かれる単衣物の裾の衣紋(えもん)の彫り方が、木彫でよく彫る「渡海達磨」の裾の衣紋そつくりなのもそのためである。
左は明治27年(1894)、新納忠之介が東京美術学校の卒業制作として作った「渡海達磨」です。たしかに裾の部分、西郷像と似ていますね。
「近世」から「現代」への橋渡しの時期である「近代」の、初期を牽引したのが光雲、後期を担ったのが光太郎とも言えましょう。その過度期の前世代に対する否定は必要欠くべからざるもの。それがなければ何事も発展しません。それが光雲光太郎父子にはある種の悲劇でもありました。
大人とは何でせう。
子どもとは何でせう。
大人とは分別のついた大きな子供。
子どもとは大人の分子を残らず持つた小さな芽です。
子どもが大人に変るのではありません。
子どものまんま
そのまま機能が出そろつて
それで大人になるのです。
大人は小さな乳呑児の中にもう居ます。
大人はみんな子どもの面立(おもだち)そつくりです。
大きな西郷隆盛は
結局小さな吉之助とちがひません。
子ども子どもといつて
別物にするのは止しませう。
大人になつて変るのは
ただ末梢にすぎません。
子どもはあらゆる本能の巣です。
(以下略)
昭和17年(1942)の作。ほぼ前半を引用しました。これで終わっていればそれなりにいい詩なのですが、後半になると、戦時中ということで、大東亜の危急存亡を救う健全な少国民を育てましょう、的な内容となり、「おいおい」という感じです。
「大きな西郷隆盛は 結局小さな吉之助とちがひません。」は、NHKさんの「西郷どん」でも、そのような描き方がされていたようですね。
また上野に行く機会があったら、今日書いたようなことを思い返しつつ、西郷像を観てみたいと思っております。
【折々のことば・光太郎】
絹濃しの豆腐と言つた様に非常に軟かく、物質が飽和し、分子と分子とが飽和して居て舌の僅かな労力の為めにすぐ崩れて了ふけれど、それかと言つて歯答へがないと言ふのではない。言ふに言はれぬ此の間の舌ざはりが、芋だの、南瓜だのの味に重大な位置を占めて居ると思ひます。
談話筆記「芋と南瓜の触感」より 明治45年(1912) 光太郎30歳
光太郎、その最晩年まで、西郷隆盛の故郷・鹿児島特産のサツマイモが大好物でした。食感が似ているということで、カボチャもでした。ちなみに智恵子は芋類は好まなかったそうです。
さすが詩人、食レポも見事です(笑)。