光太郎第二の故郷・岩田花巻郊外旧太田村にお住まいだった、生前の光太郎を知る高橋愛子さんが亡くなられました。

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今年の5月で86歳ということでしたので、その後誕生日を迎えられていれば87歳、そうでなければ86歳ということになります。

愛子さんのお宅は「田頭(たがしら)」という屋号の旧家。お爺さまの故・与左衛門氏は、隣家の故・駿河重次郎氏と共に、村のまとめ役的な存在で、光太郎の山小屋造りに協力を惜しまなかった一人でした。

お父様の故・雅郎氏は、光太郎が太田村に入った昭和20年(1945)にはシンガポールに出征中。翌年に復員し、その後、太田村長になりました。お母様の故・アサヨさんともども、何くれとなく光太郎の面倒を見てくださいました。

そして愛子さん。光太郎の山小屋に配給の物資を届けたり、光太郎を訪ねてくる客人を案内したり、やはり光太郎サポーターでした。

昭和24年(1949)、山小屋近くの山口小学校の学芸会に、サプライズで光太郎がサンタクロースに扮して登場、子供たちにお菓子を配ったり、一緒にステージで踊ったりしましたが、そのサンタの衣裳を作ってあげたのが、愛子さんとお母様。赤い襦袢をベースに、長い白ひげは、当時村で飼われていた羊の毛を使ったそうです。

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昭和24年(1949)に書かれた光太郎詩「山の少女」は、愛子さんがモデルとも言われている作品です。

    山の少女

  山の少女はりすのやうに
  夜明けといつしよにとび出して
  籠にいつばい栗をとる。
  どこか知らない林の奥で
  あけびをもぎつて甘露をすする。
  やまなしの実をがりがりかじる。
  山の少女は霧にかくれて
  金茸銀茸むらさきしめぢ、
  どうかすると馬喰茸(ばくらうだけ)まで見つけてくる。
  さういふ少女も秋十月は野良に出て
  紺のサルペに白手拭、
  手に研ぎたての鎌を持つて
  母(がが)ちやや兄(あんこ)にどなられながら
  稗を刈つたり粟を刈る。
   山の少女は山を恋ふ。
  きらりと光る鎌を引いて
  遠くにあをい早池峯山(はやちねさん)が
  ときどきそつと見たくなる。

光太郎歿後、昭和38年(1963)の第7回連翹忌にご出席くださり、昭和41年(1966)に山小屋近くに開館した旧高村記念館(現・森のギャラリー)の受付を永らく務められました。当方が初めてお会いしたのも、平成の初め頃、旧高村記念館ででした。

さらに、最近まで、光太郎の語り部としてご活躍。

地元テレビ岩手さんの「5きげんテレビ」、NHKさんの「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」、ATV青森テレビさんの「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」 などにご出演、光太郎の思い出を語られた他、仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さんにはインタビュー記事が載り、地元の太田地区振興会さん編刊の『高村光太郎入村70年記念 思い出記録集 大地麗』に寄稿されたりもしています。

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花巻光太郎記念館さんでは、愛子さんのお話をまとめた「おもいで 愛子おばあちゃんの玉手箱」というリーフレットも発行。

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たびたび同地を訪れられている渡辺えりさん002とも親しくなさっていて、渡辺さんがお父様の渡辺正治氏が光太郎から贈られた詩集『道程再訂版』や書簡を記念館に寄贈された際のセレモニーにもご出席されています。写真中央に愛子さんが写っています。実を言いますと、当方、愛子さんのご逝去は、渡辺さんからの電話で知りました。

そして、今年の5月15日。毎年この日に、光太郎の暮らした山小屋敷地内で開催されている花巻高村祭で、当方がインタビュアーを務め、愛子さん他4名の生前の光太郎をご存じの皆さんにお話を伺う、トークセッションが開催されました。

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その際には、まだまだお元気だったのですが……。

もっとも、今頃、雲の上で光太郎と再会し、喜ばれているかも知れません。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

相変わらずの自炊生活は、単調だけれども興味は深い。些細な食物でも自分の頭の働いてゐるものと思ふと満足が出来る。

散文「三月七日(火曜日)」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

「自炊生活」といっても、戦後の太田村でのそれではなく、ごく短期間、ひとり暮らしをしていた明治末の話です。

戦後の太田村でも、愛子さんたち村人に支えられながら送った「自炊生活」の中で、同じようなことを考えていたのかもしれません。