昨日は新橋演舞場さんに行っておりました。
光太郎智恵子とは直接関連がないのですが、当会会友・渡辺えりさんが主演(キムラ緑子さんとのダブル主演)を務められている「喜劇 有頂天団地」を拝見。
渡辺さんからは新たな公演やコンサートのたびにご案内を頂くのですが、ずっと欠礼続きで申し訳なく思っていたところ、共演されている一色采子さんからもお手紙が届き、さらに渡辺さんの事務所からお電話も。お二方からの圧力に抗しきれず(笑)……。
上の方はコピーのようですが、最終四行は自筆。「大山」は一色さんの本名。二本松でレモン忌など智恵子関連のイベントにいらっしゃる際は私人として、ということで「大山采子」さん名義でご出席されています。亡くなったお父様が、智恵子と同じ二本松のご出身で、文化勲章を受章された日本画家・大山忠作画伯。同郷のよしみで、智恵子をモチーフにした絵も複数遺されています。
左は「智恵子に扮する有馬稲子」。昭和51年(1976)、やはり新橋演舞場さんで公演があった「有馬稲子 秋の名作公演」で、北条秀司作「智恵子抄」も演目に入っており、その際に楽屋でスケッチが為されたとのこと。
北条秀司作「智恵子抄」といえば、昭和32年(1957)、明治座での初演は光太郎とも交流のあった故・初代水谷八重子さんが智恵子を演じられましたが、後に同じ水谷さん主演で昭和46年(1971)に新橋演舞場さんで再演されていいます。
ちなみに片岡さんの「智恵子飛ぶ」は、平成13年(2001)には京都南座さんでも公演されました。今回の「喜劇 有頂天団地」も来年、南座さんで京都公演があります。
ところで、何が「有頂天」なのかというと、やはり渡辺さんとキムラさんによる「喜劇 有頂天旅館」(平成27年=2015)、「喜劇 有頂天一座」(平成30年=2018)などが既にあり、いわばシリーズです。このうち、「喜劇 有頂天一座」は、初代水谷八重子さんの「智恵子抄」を書いた北条秀司の「女剣劇朝霧一座」(昭和34年=1959)を下敷きにしています。
キムラさんといえば、平成27年(2015)までBS朝日さんで放映されていた5分間番組「いにしへ日和」のナレーションを務められていました。同番組では「#107 福島県・二本松市・智恵子の空」(2014)、「#122 岩手県・花巻市・高村光太郎と大沢温泉」の2回、光太郎智恵子に触れてくださいました。
さて、「喜劇 有頂天団地」。「団地」といっても箱形4階建て等の団地ではなく、建て売り分譲住宅等の建ち並ぶ団地。渡辺さんは新しく建て売り分譲された区画に入居した主婦の役です。一色さんはその隣人・キムラ緑子さんの義妹という設定でした。
公式サイトから、あらすじを。
昭和50年代の初め。
郊外の住宅街の一角に、昨今の、いわゆるミニ開発と呼ばれる小規模の建売住宅建設が進んでいた。そのせまい敷地に突然、赤や緑や茶色の屋根の賑やかな家がしんこ細工の様に6棟、軒を接して建て込んできたので、近所ではかなり目立つ存在になっていた。
新入居者達にとっては、幾多の艱難辛苦に耐えローンを組み、やっと手に入れた住宅である。そうであれば傍目にはどう映ろうともわが城。マントルピースあり、シャンデリアあり、大型カラーテレビも鎮座している。
その一軒が隅田家。秀子夫人と娘の杏子、それに舅の大造が住んでいる。主人は外国航路の船員としてサンフランシスコに行っている…事になっている。
この隅田家の裏隣りが徳永家。同価格の同規格なのでまるで双子のように隅田家と似ている。徳永家はくに子夫人。主人の伸一郎と姑の富江と同居している。伸一郎は帝国ホテルに勤めている…事になっている。
ある日、隅田家で6棟の新入居者と長年この土地で暮らしている高見沢勝子達との寄り合いが行われた。議題は「風紀粛正」、と言っても下着の干し方、ゴミの出し方、と言った話題であった。
更に、この住宅の裏にもう2軒住宅が建つことになり、隣人たちは色々な思惑に苛まれて行く…。
郊外の住宅街の一角に、昨今の、いわゆるミニ開発と呼ばれる小規模の建売住宅建設が進んでいた。そのせまい敷地に突然、赤や緑や茶色の屋根の賑やかな家がしんこ細工の様に6棟、軒を接して建て込んできたので、近所ではかなり目立つ存在になっていた。
新入居者達にとっては、幾多の艱難辛苦に耐えローンを組み、やっと手に入れた住宅である。そうであれば傍目にはどう映ろうともわが城。マントルピースあり、シャンデリアあり、大型カラーテレビも鎮座している。
その一軒が隅田家。秀子夫人と娘の杏子、それに舅の大造が住んでいる。主人は外国航路の船員としてサンフランシスコに行っている…事になっている。
この隅田家の裏隣りが徳永家。同価格の同規格なのでまるで双子のように隅田家と似ている。徳永家はくに子夫人。主人の伸一郎と姑の富江と同居している。伸一郎は帝国ホテルに勤めている…事になっている。
ある日、隅田家で6棟の新入居者と長年この土地で暮らしている高見沢勝子達との寄り合いが行われた。議題は「風紀粛正」、と言っても下着の干し方、ゴミの出し方、と言った話題であった。
更に、この住宅の裏にもう2軒住宅が建つことになり、隣人たちは色々な思惑に苛まれて行く…。
途中、休憩をはさみ3時間あまり(上演のみで約2時間半)。長丁場の内容でしたが、芸達者な皆さんの熱演で、終わってみればけっこうあっという間の感がありました。
終演後、花を持って楽屋にお邪魔しまして、渡辺さん、一色さんとお話をさせていただきました。引き出物的にいただいてきたものがこちら。
渡辺さんからは、渡辺さんの故郷・山形のお米。
一色さんからはかわいらしい名入りの手ぬぐい。
それぞれのキャラクターがよく表れています(笑)。
新橋演舞場さんでの公演は12月22日(土)まで、来年1/12(土)~27(日)には、先述の通り京都南座さんで京都公演です。ぜひ足をお運びください。
ところで、渡辺さんのブログの最新記事では、今月10日(月)に新国立劇場さんであった、「演劇のおしごと Vol.2 ~「劇作家」とは?」というトークイベントのレポートが。お父様の渡辺正治氏と光太郎の交流のお話もなさって下さったとのこと。一色さんは昨年、二本松の智恵子生家で「智恵子・レモン忌 あいのうた」と銘打ち、「智恵子抄」の朗読をなさってくださいました。
お二人には光太郎智恵子の伝導というお仕事も続けていただきたいものです。
【折々のことば・光太郎】
「ああ、僕はやつぱり日本人だ。JAPONAISだ。MONGOLだ。LE JAUNEだ。」と頭の中で弾機(ばね)の外れた様な声がした。
散文「珈琲店より」より 明治43年(1908) 光太郎26歳
パリジェンヌの女性と一夜を過ごし、二日酔いの眼で見た洗面所の鏡に映る自らの姿を見た時の回想です。
3年以上の月日を過ごしても、結局、真に「西洋」を理解することは不可能と、この時に悟った光太郎、帰国を決意します。しかし、帰った日本の美術界は、守旧と情実と忖度の横行する旧態依然。孤独な闘いが始まります。
ちなみに渡辺えりさんのお父様は、昭和61年(1986)、パリの光太郎も通ったカフェ、クローズ・デ・リラで開催された第30回連翹忌にもご参加下さいました。